Ordinary Man

禊(みそぎ)と鎮魂(ちんこん)の霊的トレーニングを通じて、物事の真実と本質の一端を垣間見れたらと思います。
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サイトポリシー

★ このブログの霊的事柄に関する書き込みは、あくまで私の理解度に基づいた個人的見解であり、その責任は全て私個人に帰するものです。

★ 「救い」についての私の考え

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[ 2018/06/07 00:00 ] 目に見えない世界 | TB(0) | CM(11)

お知らせ(2012/2/1)

人は何処から来て何処へ行くのか?人間の心、霊、意識とは?
「たましいの帰り道」のホームページが更新中です。


リンク先=http://web3.incl.ne.jp/kaede/

※ 携帯用リンク

白椿

[ 2012/07/01 00:00 ] 目に見えない世界 | TB(0) | CM(0)

"We are Spirits"-Introduction to Reikongaku - to know who you are.

契山館会員のjzさんにより霊魂学関連サイト(英語版)が立ち上げられました。

以下にご紹介致しますので、宜しければ是非ご覧下さい。


"We are Spirits"- Introduction to Reikongaku - to know who you are.

Why were you born? What is the purpose of life? What happens when you die, and after you die? In Reikongaku - Study of Spiritual Truth, you will find your true existence, the way to know who you really are.


A member of keizankan, making by jz.

私達は霊魂

花と空
[ 2012/06/30 01:14 ] 目に見えない世界 | TB(0) | CM(0)

幽体離脱

幽体離脱という言葉を聞く人は多いと思います。

所謂、肉体から幽体が抜け出すという事ですが、こうした事を自分の意志で出来るように訓練をする人達が有るようです。

これも絶対にやってはいけない訓練だと言えます。

人間はこの世に居る限り、肉体と幽体が密着している事が一番正常な姿です。

またそう有る事が霊的にもこの世的にも正しく生きる事が出来ます。

そしてもし自分の肉体へ戻れなくなれば、言うまでも無くそれは「死」と言えます。

中には自分は必ず肉体へ戻れると言う方も居るかも知れません。

しかしこのような訓練をしていると、肉体と幽体を接着剤のように結び付けている「間気」(かんき)は消失し、自分では意図しなくても、肉体から幽体が外れやすく成ってしまいます。

やがてそうした体質と成ってしまい、普段の生活をしていても、自分でも気付かない内に、幽体が半分、肉体の外へ出てしまっているといった現象が発生する可能性も有り得ます。

もしそう成りますと、半分空き家と成った肉体に、低い霊魂の幽気、または低い霊魂そのものが侵入して来る事が有ります。

意識は混乱し、自分で有って、自分では無い、社会人としての生活を送る事が、大変難しく成ってしまうでしょう。

またこのような訓練をお金を取って、教える人も有るようですが、それはお金の為なら何でもする、霊的世界の現実を何も知らない、悪魔に魂を売る行為だと言えます。

しかし目に見えない世界の事で、何かが有っても訴える事も難しく、誰も責任は取ってはくれません。

確かにこうした事で生計を立て食べている人は居るのでしょう。でもだからと言って、それが為に人生を棒に振る人が多数出てしまっては・・・。

世の中には、全ての道は最終的に一つの頂上に辿り着くのだから、人を批判する行為はいけないと言われる方も有ります。

しかしながら、その道を走って行けば必ず崖に落ちてしまう。それに気付いた人は、それを黙って見過ごせるでしょうか。

やはり「危ない」と叫んでしまうのが、自然な事であり普通の事では無いでしょうか。

もちろん、他の方のホームページ、ブログ、掲示板等にまで乗り込んで、批判的発言をしていれば、それは荒らし行為で有ると言えます。

しかし自身のサイトに於いて、危険な事は危険だと指摘する事は言論の自由で有ると言えます。

インターネット時代と成って、玉石混淆。情報が氾濫し過ぎて、却って何が正しいのか分からなく成ってしまったように思われます。

そうした中で、明らかに危険なものも有るし、人生を不幸へと導き、人生を棒に振ってしまうものも有ります。

それらを自身の理性と直感によって取捨選択、吟味して、安易なものうまい話しに飛び付く事無く、より正しい判断をして頂きたいと願うものです。

黄色の花
[ 2012/05/18 07:03 ] 目に見えない世界 | TB(0) | CM(0)

大周天・小周天/クンダリーニ

気功法、仙道の修行の一つ、大周天・小周天。またクンダリーニヨガの修行の一つに、自身の身体内に有る霊的エネルギーを意識の力によって操作し、上下に移動させるといった技法が有ります。

これも霊魂学の視点からは絶対に行なってはいけない行法と言えます。

以前にも申し上げましたが、チャクラに意識を集中してはいけません。

それと同様に、自分の意識の力によって身体内の霊的エネルギーを移動させ、操作する事は大変危険な事です。

肉体と幽体の間を流れる「間気」(かんき)。幽体内を流れる「幽気」(ゆうき)。

これらの霊的なエネルギーは肉体を流れる血液と同様に、身体全体に自然に滞り無く流れているのが正常な姿。

例えば心臓に意識を集中するとどうでしょう。ドキドキして来るし、人によっては気分が悪く成ると思います。
ましてや身体の中を上下グルグルと意識を廻らすと言うのは、不自然極まりません。

こうした事を行なっていると、却って身体内の霊的エネルギーに過不足が起こり、時に滞り、霊的エネルギーの希薄と成った部分では、肉体と幽体が分離し易く成ったりもします。そう成ると、意識は混乱・朦朧とし様々な精神障害をも引き起こします。

また霊的には、幽体が一部、肉体から分離し、肉体とダブっている筈の幽体が空白と成った部分に、低い霊魂の幽気や甚だしくは低い霊魂が侵入する場合も有り得ます。

こうした体系は、霊的なエネルギーを全身に巡らし、チャクラを覚醒させ、気の通り道とも言える経絡を開くといった事を目的としているようですが、それは現れた結果のみを捉えて、根本を全く見失をっていると言えます。

確かに、歴史上有名な方として、イエス師やシャカ師といった神的な達人は、幽体、霊体、神体といったそれぞれの霊的身体の幽気、霊気、神気が全身を隈なく自然に滞り無く流れ、それに伴い霊的身体は非常に強く、チャクラの活動は活発で各霊的身体から発する光。つまり霊的なオーラも大変強く輝き、非常に巨大です。

そうした表に表れている事だけを捉え、それを無理矢理引き出そうとしているのが、上記の大周天・小周天やクンダリーニの霊的エネルギーを意識的に身体内で移動させる技法だと言えます。

イエス師もシャカ師もそうした修行は全く行なっていません。

あくまで先ず、神、仏といった高貴な存在を求め、霊的な修行、霊的なトレーニングを行い、霊的な進歩・向上をして行く事で、自然に気の流れ道は開き何処にも滞り無く流れるように成り、幽体の霊的中枢器官と言えるチャクラの活動は活発と成り、所謂、覚醒して行くと言えるでしょう。

神または仏といった高貴な存在を求める修行。つまり霊的トレーニングを行なっていると、高貴な存在の御使いとも言える高級な霊魂が、自分でも知らない所で、修行者のチャクラを含めた霊的身体やそこに流れる霊的なエネルギー(間気・幽気・霊気)、そして各霊的身体から発するオーラを調整して下さります。

それによって、自力で何一つ霊的なエネルギーの移動やチャクラを意識せずとも、修行の段階に応じて自然に霊的エネルギー(間気・幽気・霊気)は全身を巡り、自然にチャクラの活動も活発に成って行くと言えます。

上記で説明している(大周天・小周天/クンダリーニ)の身体内の霊的エネルギー移動の技法は恐らく昔、神的、霊的な達人に巡り会った人が、少しでも早く達人のようなチャクラやオーラを目指したいと思い、人間の頭脳をひねくり回して考えた結果、編み出した技術では無いかと推測されます。

霊的なトレーニングは本来決して、人の頭、人智で考える事は出来ません。

例えば私の所属する契山館では、最上級の霊的存在と言える神霊またはその御使いである高級霊魂方が、その時代の地上の霊的環境や地上の人々の霊的状態を調査し、それに応じた最も相応しい、霊的トレーニングを作成し、私の師でも有る、水波一郎師にその技法を授けられました。

その為、契山館の霊的トレーニングでは「神伝禊法」または「神伝鎮魂法」と「神伝」の名称を冠しています。

イエス師やシャカ師といった方々は本物の神的達人でしたが、そうした方々の居らっしやった時代は、現代に比べると霊的な環境が比較的良く、世の中の幽気は澄んでいて、邪悪な霊魂達も現代のように多数、下層の世界から這い出しては来ていませんでした。

もし仮にイエス師やシャカ師が用いた霊的な技法が正確に現代にまで伝わっていても、あまりにも霊的な環境が穢れてしまった現代では不十分だと言えるでしょう。

イエス師やシャカ師は、ご自分の説かれた事をキリスト教だとか仏教だとかは少しも言われてはいません。そうした事を言うように成ったのは後世の人達だと言えます。

イエス師やシャカ師は、その時代、その国、その人々にとっての、最善の教えや霊的技法を示されただけなのです。

もし現代にイエス師やシャカ師が居らっしゃれば、決して2000年以上も前の技法や教えにこだわる筈が有りません。

必ずその時代の人々に合わせた、新しい技法と教えを示されます。

今、イエス師やシャカ師は霊魂の世界の遥か高い世界に居らっしゃり、地上の宗教戦争とは全く無関係に、仏教だとかキリスト教だとか一宗一派には全くこだわっては居らっしゃいません。

神々の経綸、そして人類の真の霊的な救いの為で有れば、小さな枠は一切無視し、手を取り合い協力は惜しまれません。

そうして今、現代人の為の霊的トレーニングとして「神伝禊法」「神伝鎮魂法」は地上に降ろされたと言えます。

「神伝禊法」「神伝鎮魂法」は神を求め、神を知る為の技法で有り、神を求める事は人間本来、霊的生命体としての霊的な進歩・向上をもたらし、真に霊的な進歩・向上をして行く事が出来れば、自然にチャクラの活動は活発に成り、自然に霊的なオーラも大きく成って行くのです。

イエス師もシャカ師も、2000年前それらの国での名前の呼び方は違っても、その本質は「禊法」「鎮魂法」といった霊的トレーニングの頂点を極めた達人なのです。

<Walkの霊的トレーニングの師HP>



菖蒲
[ 2012/05/16 00:21 ] 目に見えない世界 | TB(0) | CM(0)

宗教

宗教は全て、最終的に辿り着く所は同じという人がいます。

それは正しい場合も有るし、間違っている場合も有ると言えるでしょう。

そこで私は宗教学者では無く、あくまで霊的修行者の一人ですが、その視点から大まかでは有りますが、世の中にはどういった宗教が有るのか少しだけ確認をしてみたいと思います。

① 聖典や経典が有り、それを学び読誦し、ひたすらそれに則って信仰や日々の生活規範を判断する。信仰の実践としては、戒律を守り、祈りを行い、奉仕活動をする。神や仏は認めるが、霊魂の存在については曖昧に捉えている事が多い。

② 伝統文化の継承やその儀式を重んじる。聖典や経典の学問的解釈を探求する。その為、神や仏、霊魂といった目に見えない存在は認めない。例えば「神は昔の偉業を為した人間を神として奉った」とも主張する。

③ 聖典や経典は有るが、理論的な解釈よりも修行の実践を通じて、聖典や経典に書いて有るその真義を探ろうとする体系。修行の過程に於いて、病気直し、祓いや除霊といった霊術を、その人の修行の段階に応じて使えるようにも成る。但し現代の一般人が行うには、肉体への負担が大きかったり、時間も大変掛かるので不向きな部分も有る。

④ 修行や霊的トレーニングを全く積む事も無く、他者を救う為として、手かざし等の霊的技術を安易に授ける団体。

⑤ 教祖等を通じたお告げによって、人生を上手に生きる為の教えやノウハウ、開運を目的としたまじない、呪文などを指導する。またそうしたグッズも販売される。教祖も信者も特に修行のようなものは行わない。

⑥ 最近、テレビ等で世間を騒がしている、反社会的、非常識で他者へ迷惑を掛ける事を厭わない集団。反社会的な行動は世の中を良くする為だと肯定しようとする事も有る。社会常識を逸脱した行動や言動が多い。所謂、カルトとも言われる。

①は真面目で穏健的。伝統的宗教にも新興宗教にもそうした団体は有る。但し霊的な世界の真実・神秘を知りたいと思っても、往々にしてそこまで答えられる人が居ないのが現状。

②は現代の多くの伝統宗教が、そうした傾向に有る。あまりにも学問的・形式的と成って、そこに純粋な信仰や霊的世界の神秘を見出す事は非常に難しい。

③は例えば日本では、密教のような秘教的な宗教と言える。秘伝・口伝が多数有り非常に奥は深い。正しい師匠につけば、飛躍的に霊的な成長を得る事が出来る。霊的世界の薀奥を垣間見るのも不可能では無いと言える。但し、誰でもそうした先生の弟子に成れる訳では無く、また修行も厳しい為、忙しい現代人にはなかなか難しい。

④は他者を救う為の霊的技術、つまり霊術とは、本来ある段階まで修行・霊的トレーニングを積んで十分な力を付けてからでないと、自分も相手もいずれ共倒れに成ってしまいます。それは古くからの鉄則ですが、最近は数日または数時間の研修で誰でもすぐに出来るように成ると言う・・・。上手い話し軽薄なものは本物だった試しは無いのは、誰でも少し冷静に成れば分かるのでは無いでしょうか?

⑤は新興宗教や最近、流行りのスピリチュアルな団体に多い形態。宗教臭さが少ない為、ファッション感覚で集まる人は非常に多い。しかし、霊的に深い何かを求める事は出来ない。

⑥は非常に残念な事では有りますが、教祖や幹部達の狂気と策略によって、真面目な信者まで振り回され、信者にも社会にも不幸な結果を招いてしまう。そして他の真面目で穏健な宗教・霊的団体まで、カルトと同類として見られるように成ってしまった。

さて我田引水では有りますが、私の所属する「契山館」はどうでしょうか。

一見すると上記③の秘教的なものに近いかも知れません。

しかしながら「契山館」はあくまで忙しい現代人の為の「霊魂学」を説き、「霊的トレーニング」を実践しようとする団体です。

その為「霊魂学」は平易な言葉で霊的世界の真実を表現する事を目指し、「霊的トレーニング」は短い時間で肉体的苦痛も無く、効果的に肉体や霊的な部分の健全化を図り、そして霊的身体の強化、霊的カルマの解消による魂の向上、自身の霊的生命体としての全体を成長させる事を試みます。

出家などする必要は無いし、私自身、妻も居れば子供も居て、普通の会社員として働き、家族サービスも大切に考えています。

契山館の会員は全員、全くの一般人として暮らしています。

他者や社会に迷惑を掛けず、普通の人として生活を送る事で、寧ろ様々な経験も積めるし、もちろん人として美味しいものも食べ、恋もして、そうした事が人の霊的カルマを解消し、霊的な進歩・向上にも却って通じると考えています。

戒律は一切無く、しいて言えば他者に迷惑を掛けない事。

そして一日の内、無理の無い範囲で、僅かで良いから霊的トレーニングをする事。でもそれも強制では有りません。

そうして霊的トレーニングを積んで行けば、一般人で有りながら、聖職者と成らずとも、他者への病気直し、祓いや除霊といった霊術を行使する事も可能と成ります。

また霊的トレーニングによる霊的な進歩・向上によって、自身の守護霊・指導霊を始めとする高級な霊魂と密着出来るように成って行くので、この世の人生も自身の生まれた本来の目的に向い易く成るし、死後もより高級な世界に上がり易く成ります。

それは風船が法則によって、自然に上に上がって行く事と似ています。

世の中にはいろいろな宗教や霊的な団体が有ります。

確かに目指す所が同じで有って、無謀な到達方法で無ければ、早い遅いは有っても、結果として同じ所に辿り着くかも知れません。

しかしながら危険なルートを選んだり、そもそも目指すべき山が違っていれば全く違った結果を生む事に成るでしょう。

また先達が安易でいい加減な人ならば、頂上に辿り着けないばかりか、大きな事故に巻き込まれるかも知れません。

どういった山を目指し、登山ルートや登山方法を取るかは人の自由意思と言えるのでしょう。

とは言え何がより正しいのかしっかり判断し、危険な山、危険なルート、危険な方法は選んで欲しく無いと心から願うものです。

たんぽぽ
[ 2012/05/09 23:52 ] 目に見えない世界 | TB(0) | CM(0)

気功治療

気功治療。目に見えない力。つまり「気」を利用して人の心身の病を癒して行くものと言えるのでしょう。

その「気」について霊魂学では4つに分類・定義します。

先づ人の肉体と幽体の間を流れ、肉体と幽体を接着剤のように結び付ける働きを持つ「間気」(かんき)。

次に人が死後に入るあの世。つまり幽質界に存在し、また人の肉体とダブっている幽体にも血液の如しに流れる「幽気」(ゆうき)。

次に幽質界より遥か上の高貴な世界。つまり霊質界に存在し、また特別な霊的トレーニングを積んだ人が成長させる事の出来る霊的身体。霊体に流れる「霊気」(れいき)。

最後に宇宙全体を総括される程の巨大な個性。つまり神霊が居らっしゃる神質界に存在し、また霊的トレーニングの頂点を極めたイエス師やシャカ師と言った、歴史的な達人のみが有する霊的身体。神体に流れる高貴な力。「神気」(しんき)。

以上のように分ける事が出来ます。

気功師の方々自身も言われる事ですが、施術をしていると患者に気を奪われて、施術者自身の間気が不足したり、または患者の低い気を吸ってしまうといった事は良く有るようです。

そうすると外部の大気や樹木から気を吸収し、不足を補いリフレッシュを図るようです。

そうして真面目な気功師の方々は身を削りながら、患者の方の為に尽くされていると言えるでしょう。

しかしながら気功治療の場合、自分自身の間気を使っている為に、常に力を与え、力を補い、イタチごっこだと言えます。

また間気を受けた側も、他者の間気が入り込む事で、輸血の際の拒絶反応と同じような副作用を引き起こして行きます。

霊魂学で言う「霊術」は、自分自身の間気を用いる事は有りません。

あくまで先づ神、仏といった高貴なる存在を求め、その下に連なる高級な霊魂方より流れ来る、高級な幽気以上の力を用います。

ですから当然、副作用も有りません。

自身はあくまで高級な霊魂より流れ来る力を流す、パイプに成る事を目指します。

その為、自分自身の力が不足するという事は有りません。

とは言え、より高級で強力な力を流す為には、パイプが細く弱かったり、錆びていたり、穴が空いていてはその役目は決して果たせません。

それだけの太さや強度が必要だと言えます。

ただ単なる観念だけで、パイプに成ろうと思っても、それに相応した器と成っていなければ、高級な霊魂よりの力を流す事は出来ません。

そうした器と成る為に霊的トレーニングが必要で有ると言えます。

霊的トレーニングによって、自身の幽体や霊体を強化し、霊的カルマの解消により魂の進歩・向上を図る事によって初めて、真の霊的なパイプと成り、より高級な力を他者へ流す事が出来るように成ると言えます。

私はクリスチャンでは有りませんが、例えば信仰治療で有名なイエス師は、霊的トレーニングの頂点を極めていたからこそ、高貴な存在よりの力を人々へ流し、多くの人々を癒す事が出来たと言えるでしょう。

やはりイエス師のような歴史的達人で有っても、そうなのですから、私達のような凡庸の魂は尚更、自分の力だけでは限界が有ると言えるでしょう。

先ず高貴なる存在を求め、その下に連なる高級な霊魂よりの力を受ける事。それが肉の身体や心のみならず、霊的な進歩・向上。心の奥の奥に有る魂の根本的な救いにも繋がると言えるでしょう。

[ 2012/04/20 21:58 ] 目に見えない世界 | TB(0) | CM(0)

先祖供養

何か不幸が起きるのは、先祖の供養が足りないからだと言う、霊能力者や宗教者が居ます。

例えばある時ある人が家庭内の悩みが有って、新聞広告に相談料2000円と書いて有ったので、早速、相談に行きました。

悩み事を打ち明け「さて何の災いか調べてみましょう」と成りました。

「これは何代前の先祖の◯◯因縁。私の所で3年間の供養をする必要が有る。一日、1000円分の野菜・果物などをお供えするので、3年分として100万円を納めて下さい。」

最初は「えっ、100万円?」と思ったけれども、それでも藁にも縋る思いだったので、100万円を払ってしまった。

やがて3年経ったけれども、事態は好転するどころか寧ろ悪化してしまいました。

残ったのは送られて来たお札とお守り。そして100万円を支払った領収書だけ・・・。

およそ先祖とか水子とか言えば、みんな恐れ入ってしまいます。

言われてみれば、そのようだと思えてしまうからだと言えます。
何故か現代では、先祖の供養が不幸の脱却や幸せに成る為の道具のように成ってしまっています。

毎日、仏壇でお経を上げていれば、先祖が成仏して守護霊に成ると言う霊能力者もいます。

霊魂学で定義する所の守護霊は先祖の霊魂では有りません。

先祖供養とは無関係に人が生まれる前後から、より上位の高貴な霊魂の命を受け、人の一生に亘って、人間本来、霊的生命体としての正しい霊的進歩・向上を目指して行く為に、力を貸し導こうとして下さる、上級幽界の高級霊魂と言えます。

よって常に魂の長い歴史を見据えているので、子供に幾らでも甘いお菓子を買い与えるような、世間で良く言う目先の金運や恋愛運と言った事を叶えてくれる、レベルの低い存在では有りません。

親が子供の将来を考えて、敢えて厳しくする事が有るように、霊魂学で定義するところの守護霊も霊的には子供と言える人間を甘やかし駄目にするような事に力は貸しません。

虫歯に成ろうとお腹を壊そうと、言われるがままにいつも甘いお菓子を呉れるのは、やはり高級では無い側の霊魂です。

開運を目指して日々仏壇やお墓でお経を唱えるなら、広大な幽質界の住人と成った先祖の霊にそれが届く事は決して無く、お経や祈りによって発せられた大量の想念を利用しようとあたかも虫が群がるように、未発達霊魂や邪霊が集まって来ます。

未発達霊魂や邪霊は高級な霊魂とは異なり、この世の次元により近いので実際に現世利益を与えて呉れる事が有ります。

でもそれは「悪魔に魂を売る」と言う事であり、この世でもあの世でも未発達霊魂や邪霊との二人三脚の人生を覚悟するべきだと言えます。

もし仮に人のお経が、何かの理由で先祖の霊魂に届く事が有ったとしても、読んでいる方も聞いている方も意味が全く分からないのに霊的な救いに繋がる事は有りません。

お経とは本来、シャカ師の説かれた教え・物語が書かれているのに、それを全く理解しないで、どうして救われるという事が言えるのでしょうか。

百万遍唱えても、全く意味が無いと言えるでしょう。

もし仮に先祖の霊魂を救いたいと言うのなら、先ず自分が霊的に救われていないと、一方的に先祖を救ってやろうと言ってみても、それは空しい事だと言えます。

もし本気で自分に関わる霊魂を救いたいと言うのなら、やはり霊的トレーニングを実践し、幽体・霊体を高度に成長させ、霊的カルマの解消により魂の進歩を得て、高級な霊魂と密着する必要が有ります。

そうすればわざわざお経を唱えずとも、高級な霊魂が自然にいつの間にか、自分に関わる霊魂を救い導いて下さる事が有ります。

霊的トレーニングを行うと言う事は自身の救いであり、また霊的な成長に応じた他者や他の霊魂にとっての霊的な灯台に成る事をも意味します。

先祖供養とはあくまで、人が自然な気持ちとして亡き人を思い、故人の遺徳を偲ぶ為のもの。今一度、原点に戻る必要が有ると言えるでしょう。

[ 2012/04/17 17:46 ] 目に見えない世界 | TB(0) | CM(2)

イースター(復活祭)

今年の4月8日は「イースター」

「イースター」とはイエス師が亡くなって三日後に復活した事を記念する復活祭の事。

毎年、日が異なっていて、春分の日の後、満月の次の日曜日に祝われるようです。

イースターの卵を子供達に探させるのは、復活したイエス師を見つけると言う意味も有るようです。

いつも言うように、私はクリスチャンでは有りません。

あくまで霊魂学を学び、霊的トレーニングを日々行なっている者です。

霊魂学の視点から、如何なる宗教・流派も良いものは良い。悪いものは悪いと捉えていきたいと考えています。

そうした観点から、現代のキリスト教がどうかは別として、イエス師は「霊的トレーニング」を極めに極めた、歴史的達人のお一人で有った事は事実だと言えます。

インターネット上で詳しい事を述べる事は出来ませんが、聖書に有るイエス師の復活は事実です。

そしてそれは人の命は死後も続く。霊魂の実在を証明する為に、そうした奇跡の業を敢えて行われたようです。

イエス師の復活によって、弟子達は目覚め、その信仰によってキリスト教を世界宗教にまで押し上げたのは歴史が示して居ると言えるでしょう。

しかし現代のキリスト教はイエス師が説かれた本質からは遠ざかってしまいました。

イエス師の教えは、数千年を経て様々に解釈され、様々に分かれ、様々な流派を作るに至りました。

それでもその基本思想は多くの場合、イエス師が人々を救う為、人々の罪を背負われたと言います。

それは大きな誤りと言えます。

そもそも人の罪は何なのか?

そこから考えなければなりません。

ここで言う人の罪とは、必ずしも法律上の罪で有るとか、倫理・道徳の観念上の罪を言う訳では有りません。

神々や高貴な霊魂方から見た、人々の罪とは、人の生まれ変わりに於いて、過去世より持ち越して来た霊的カルマと言えます。

それは人が本来、霊的生命体としての人生に於いて、結果的に不幸に成る道を選んでしまう衝動。そうしたものを引き付けてしまう潜在心と言えます。

つまり霊的カルマとは、人々の心の奥の奥に眠っている人々自身のものなのだから、そうしたものを如何なる救い主。如何なるメシアと言えども肩代わりする事は出来ません。

それだけにイエス師の現代への復活・再臨を待っていても仕方が有りません。

二千年前と同じ肉体を持ったイエス師が再び、この世に現れる事は絶対に有りません。

しかしながら霊魂としてのイエス師は、いつも高貴な霊的世界で輝き実在されています。

今やあまりにも高い世界に居らっしゃるので、普段、霊的トレーニングを行なっていない普通の人が祈って、直接イエス師にその想念が届く事は不可能だと言えます。

しかしその真剣さ、情熱に応じてイエス師の下に連なる霊魂団には届く可能性は有ります。

イエス師の真の復活・再臨とは、人々が霊的トレーニングを行い、幽体、霊体を鍛え、霊的カルマを解消し、魂を進歩させた時、高貴な霊魂としてのイエス師が高級な霊魂団を率いて降臨され、人々に真の救いの力を示される事だと言えます。

しかし、それはいつも人の自由意思に掛っていると言えます。

何もしないでただ寝て待っているだけでは、決して真の救いも真の幸せも訪れません。

日本は大きな苦しみを背負ってしまいました。

それだけにイエス師もシャカ師も、宗教・宗派を超えた高級な霊魂団は真の救いの力を降ろさんと、人々が霊的な目覚めに至るのを待っています。

★ 水波一郎師が高級霊魂よりの通信を得て作成された書籍。

◆ 霊魂イエス http://www.interq.or.jp/mercury/w22525/reikai/reikontsushin/shoseki.htm

[ 2012/04/07 11:33 ] 目に見えない世界 | TB(0) | CM(0)

チャクラ

世の中には一にも二にもチャクラと叫ぶ人達が居る。

チャクラに集中すると霊能力・超常能力が開けると言う。

チャクラへの集中。霊魂学では絶対にやってはいけないと言います。

チャクラとはそもそも何か?

チャクラとは人が死後、表面の身体として使用する幽体各部の中枢機関と言えます。

幽体は言うまでも無く、特別な何かでは無く、誰もが肉体の奥に所持した身体でしか有りません。

例えば肉体の諸機関、心臓なら心臓、胃なら胃。そこへ血液を意図的に集中させたらどうなると言えるでしょうか。

肉体の一部だけに血液が集中する事で、肉体の全体としてのバランスを崩し不調を起こしてしまいます。

幽体にも同じ事が言えます。

各部のチャクラへ集中する事により、肉体と幽体の間を流れる「間気」、また幽体に流れる幽体の血液とも言える「幽気」。

これらが身体の一部分に集中する事により、他の箇所の間気や幽気は希薄に成ってしまいます。

当然、そうした部分の活力が無くなってしまいますので、そうした部位の不調が起き易く成るのです。

チャクラを云々するのは主にヨーガの各派だと思います。

はっきりと現代の世にお名前が伝わって居ませんが、古代のヨーガの創始者は今でも高貴な霊魂として耀いて居らっしゃいます。

私達の霊的トレーニングの会「契山館」はヨーガを信奉しては居ません。

しかしながら、そうした流派に関係無く、高貴な霊魂としてのヨーガの創始者も契山館の指導霊団のお一人として加わって下さっています。

しかし「チャクラへ集中しろ」などと言う指導は一度も受けた事が有りません。

いくらチャクラへ集中しても、幽体全体の活力は強く成らないし、却って幽体の血液。幽気も滞ってしまいます。

それに伴い、幽体から発する光。つまり幽体オーラも弱く成ります。

幽体の生命力が落ち、幽体から発する光が弱く成れば、この世で言えばバイ菌と言っても過言では無い、低い幽気、未発達霊魂や邪霊を引き付け易く成ります。

では幽体全体の活力を増し、幽気の流れを良くするにはどうすれば良いでしょうか。

それは神々や高貴な霊魂方との約束事により成り立った、特別な言葉や作法を行う事により、それが高貴な存在への合図と成り、高貴な力を降ろして頂く事が可能に成ります。

その高貴な力を自身の幽体に吸収する事が出来れば、自ずと幽体の活力は増し、幽気は全身を滞り無く流れ、幽体から発する光は力を増し、自ずと幽体各部のチャクラも活発に活動をし始めるのです。

何一つ、チャクラへ集中する必要が有りません。

きっと古代のヨーガの創始者が現代のヨーガを知ったら、「私はチャクラへ集中しろとは一言も言ってはいない。」と言われる事でしょう。

現代の多くのヨーガは、古代のヨーガの創始者が本来残した、高貴な技法や教えを見失い、本末を転倒してしまったと言えるでしょう。

チャクラを輝かすには、チャクラを直接意識するのでは無く、ただ幽体を健全にし強化すれば良かったのです。

ヨーガが出現して、何千年も経ち、創始者は達人中の達人で有っても、仏教やキリスト教と同様に、本来の教えや修行の法は捻じ曲げられてしまった。

今、古代のヨーガの創始者もイエス師もシャカ師もその他あらゆる宗教・流派で修行をして高貴な霊魂と成った方々も、そうした宗教・流派を全く無視して「神伝禊法・神伝鎮魂法」の指導をされる為、集まって下さって居る・・・。

「神伝の法について」: http://www.interq.or.jp/mercury/w22525/training2.htm

夜桜
[ 2012/04/03 00:41 ] 目に見えない世界 | TB(0) | CM(0)

チャネリング

スピリチュアルの世界では神や天使、諸々の霊魂と意識交流をし、その言葉を語る事を「チャネリング」と言うそうです。

また「チャネリング」は誰にでも出来ると主張する人も居るようです。

「チャネリング」を行なうと言う事は、つまり霊媒に成る事を意味します。

「霊魂学」の視点から言えば、そうした事は霊的に大変危険なので絶対行なってはならないと言います。

「霊魂学」では霊媒が高貴な存在のご意思を伝える技術を「帰神法」と言います。

「帰神法」はその言葉からも分かるように、神の下へ帰る技とも言えます。

つまり「禊法」や「鎮魂法」といった“霊的トレーニング”で鍛えに鍛え、幽体、霊体を高度に強化・成長させ、ついには神体をも発生させ強化する。

霊的トレーニングの頂点を極めに極め、神の下へ帰るレベルに達した方だけが、初めて許される技術だと言えます。

未だ嘗て「帰神法」としての、そうした真のレベルに達し、技術を行使されたのは、歴史上、僅かしか居らっしゃいません。

天才中の天才が誰にも真似が出来ない程の努力を長い間に亘って積み重ね、やっと可能に成るのだと言えます。

普段、霊的トレーニングの初歩も行なっていない一般の人が「帰神法」を行なうという事は絶対に不可能なのです。

もし自分は出来るという人が居たなら、「今までにどれだけの霊的トレーニングを積んで来ましたか?」と問うべきだと言えるでしょう。

もしそれでも、こうした事を断行すれば、何ら鍛えられていない未熟な幽体では、未発達霊魂や邪霊に弄ばれるだけだと言えます。

所謂、チャネラーと言われる人達は、高級な霊魂は何かを強制したり命令したりする事は無いから、そのような事を言って来なければ、それは低い霊魂では無いと言います。

しかし、現実はそうでは有りません。

未発達霊魂や邪霊は大変、頭が良いのです。

人間達が「高級な霊魂は何かを強制したり、命令したりする事は無い。」と言っているのを知れば、やはり高級な霊魂のような言葉を使って装います。

自分が交流して居る存在が、高級で有るか、低級で有るかは表面の言葉だけでは絶対に見抜けません。

未発達霊魂や邪霊は愛で有るとか平和で有るとか、人間が好む言葉を勉強し、それを並べ立てます。

幽体を神や天使のような姿に変化させ、いくらでも人間を騙し、人はそれに全く気付かないで居るのです。

夜、寝ている時も恋人とデートをしている時も常に霊魂に話し掛けられて、何が幸せと言えるでしょうか。

人はそうしたものには、決して手を出さず霊的トレーニングによって幽体や霊体を鍛え、魂に巣食う過去世からの霊的カルマを解消し、霊的な進歩・向上を求める事こそが、この世でもあの世でも、真の幸せに繋がっていくと言えます。

我田引水とは成りますが、私の師。水波一郎師は「帰神法」の達人で、高貴な霊魂からの言葉を多数示されています。その内の一つに「霊魂通信」が有ります。

注)「チャネリング」という言葉は霊魂学の用語では有りません。

★ 水波一郎師が高級霊魂よりの通信を得て作成された書籍。

◆ 霊魂通信 http://www.interq.or.jp/mercury/w22525/reikai/reikontsushin/shoseki.htm


[ 2012/04/01 18:03 ] 目に見えない世界 | TB(0) | CM(0)

ヒーリング(癒し)

最近は最近はヒーリング(癒し)と言う言葉が良く持てはやされます。

その言葉の定義はかなりの広範のようで、先ずはお香や花の香り、またはマッサージ、音楽等で心身の疲れを取り、リラックスさせるものが有ります。

次に目に見えない力を行使すると言える、気功や手かざし、心霊治療、悪魔祓い等が有ります。

ここでは霊的な視点から、後者について取り上げてみたいと思います。

インターネット等で検索すると、こうした目に見えない力を行使する為の技。つまり霊術を僅か3日程度、場合によってはたったの数時間で授けるといった所も有るようです。

これは大変に恐ろしい事です。

例えば昔の修行僧で有れば、加持祈祷を行なう前提として、必ず厳しい修行を行なっています。

それが普段、全くの一般人としての生活を送っているのに、どうして急に高貴な力を行使する事が出来るように成るのでしょうか。

昔と今とでは違うと言うのでしょうか。いいえ、そんな事は有り得ません。

確かに形だけで有れば、いかようにでも振る舞えます。また誰にでも当てはまるような尤もらしい事を言えば、騙される人も多いのでしょう。

また手かざしのような技で、自身の肉体と幽体の間に流れる、半物質・半幽質のエネルギー。つまり「間気」(かんき)を患者の身体に流せば病気が治る事は有ります。

しかしそれは一時的なもので有って、他者の間気が患者の身体に入り込む事によって、やがて時間が経つと身体は他者に入れられた間気に違和感を持ち拒絶反応を起こします。

そして却って、病状は悪化してしまう事が有ります。

それ以上に怖いのは、他者の間気が入り込む事により霊的な不調が起こる事です。

幽体や幽体に流れる幽気に不調を来たせば、幽体の活力は弱まり、幽体から発する光は弱く成り、高級な霊魂からは見えにくく、逆に低い霊魂から見え易く成ります。

自身の間気を他者に流すのは、絶対にやってはいけない技だと言えます。

ならばどういった場合なら良いのでしょうか?

それはやはり一定の霊的トレーニングを積み、自身の幽体を健全化・強化し、また自身の過去世から持ち越して来た霊的カルマを解消し魂を進歩させるならば、自分の力では無く高級な霊魂の力を流すパイプと成り得るし、そう成ってこそ、始めて他者の肉体の病、霊的な病をも癒す、治す事が出来ると言えるでしょう。

何度も申し上げますが、霊的トレーニングは苦行では無く、また戒律を持って一般人と違う生活をする必要も有りません。

社会人として人に迷惑を掛けないといった、ごく当たり前の事さえ守っていれば、肉を食べず、酒をのまず、結婚もしない特別・格別な人格者で有る必要は無いのです。

大切なのは一言で言うなら、ただひたすら神または仏といった高貴な存在を真剣に愛し求める事。

霊術とは安易に行なうべきものでは有りません。安易に行なう事は自分も他者も肉体的・霊的な重荷を背負う事に成ります。

ある人は他者からの強い攻撃的な念により幽体に大きな損傷が有り、間気は漏れ、幽体は肉体から外れかけ、幽体から発する光も弱く、その為、低い霊魂が憑依してしまった。

霊的な症状は重く、このまま放って置いては、この方は明日必ず死んでしまう。しかしこの霊魂を除霊すると成ると、自分が倒れてしまうかも知れない。

それでも神、高級霊魂に全てを委ね、この方の為に霊術を行使しよう。

そして無事、当面の危険を回避出来たなら、今後、そのような事に成らないよう、単なる心の転換では無く、霊的トレーニングによって幽体を健全化し、それによって幽体からの光を正常化し、霊的カルマの解消をして行けるよう指導する。

霊術とは本来、命がけで有り、小手先の技でも無く、最終的には人間本来、霊的生命体としての霊的な進歩・向上へと向かわせるきっかけに成るもので無ければならないと言えるでしょう。

この世の事もあの世の事も甘い言葉には要注意で、安易なものには決して手を出すべきでは無いと言えます。

※ 「ヒーリング」という言葉は霊魂学の用語では有りません。霊魂学では他者に霊的な力や技を行使する事を「霊術」(れいじゅつ)と言っています。





白い花
[ 2012/03/29 01:00 ] 目に見えない世界 | TB(0) | CM(0)

瞑想法

最近は瞑想をする人達が増えているようです。

もちろん宗教的なものとして、行なう人は昔から多いと言えます。

現代ではビシネスにおける自己啓発や、ストレスの解消、またはスピリチュアルは宗教では無いからとそうした所で、瞑想を行なう人も多いようです。

確かに一時的に精神の緊張を和らげる効果は有るかも知れません。

しかしながら、現代の瞑想はいずれも霊魂を前提として行なっている人は皆無と言えるでしょう。

現代の瞑想を指導する多くの人が良い事ばかりを言って、瞑想の弊害を語る事は決して有りません。

瞑想をする時は無心に成ろうとしまたは何かに集中したり、そうした時、表面の意識は虚ろに成ります。

霊的には大きな隙が出来ます。

「邪霊・未発達霊魂にいつでも憑依してもいいですよ」と宣言をしているようなものです。

そして姿の見えない何者かの声が聞こえるように成り、ノイローゼと成る人も居ます。

しかし瞑想を指導する所では、それがビシネスなので、お客が減ると困るし、そうした事を決して表には出しません。

それを病気の一つとして扱います。

しかし病院へ行ってもなかなか治療をする事が出来ません。いくら薬を飲んでも憑依した霊魂は離れて行かないからです。

単純な瞑想は大変危険です。霊魂は何処にでも居るのです。心霊スポットにだけ居るのでは有りません。

本来の瞑想は霊的なシステムの中の一部として、それ前提にきちんと高級な霊魂をお呼びし、高級な霊的空間を作成して、その空間の中で行なえば、霊的には安全と言えます。

更には幽体の傷を修復し、健全化・成長させ高級な霊魂とも密着する事が出来、結果として霊的な進歩・向上を図る事が出来ます。

瞑想は本来、霊的トレーニングの中に取り込まれたシステムの中の一部で有るべきだと言えます。

しかしながら、そうした指導の出来る所は他には見当たりません。

そうした中、唯一その方法を神霊より地上の神的達人を通して示されたのが「神伝鎮魂法」だと言えます。

「神伝の法について」: http://www.interq.or.jp/mercury/w22525/training2.htm


[ 2012/03/26 07:22 ] 目に見えない世界 | TB(0) | CM(0)

いちご狩り

[いちご狩り] ブログ村キーワード

3月に入り徐々に花のつぼみは開き鳥達は囀り、漸く日々春の気配を感じるように成って来ました。

そんな中、春の果実と言えるいちごは食べ頃です。

いちごは人に食べられるもの。

いちごが賢く成って、人に文句やあれが欲しいこれが欲しいと、難しい事ばかり言っていては誰も摘んでは呉れなく成ります。

やがていちごはそのまま枯れて行き、惨めな姿と成って行く。

人も本来、神様に食べて貰ういちごのような存在。

勘違いしている人が多い・・・。人間の為に神様が居らっしゃるのでは無い。

人も難しい理屈ばかりを述べるのでは無く、素直に神様に食べて頂くのが一番幸せな事だと言える。

それによって、人は永遠に枯れる事の無い生命の実へと生れ変る。

あまりに賢く成り過ぎて、理屈ばかり言っていては神様には食べて貰えない。

所詮、知恵の実は有限で永遠では無くやがて枯れ、あらゆる不幸を生んで行く・・・。

苺
[ 2012/03/10 23:07 ] つぶやき | TB(0) | CM(0)

春は必ずやって来ます。

どんなに今年の冬は寒かったと言っても春は来ます。

3月に入ってから、かなり寒さが緩んで来ました。

肌寒いとは言え、マフラーや手袋が無くても平気です。

今年は梅の花の開花がかなり遅れたようですが、それでも今では通勤路で咲いている梅の花は満開。梅の花の香りがとても香しいと言えます。

しかしながら、日本のような四季の有る国は必ずしも多くは有りません。

冬ばかりの国も有る。夏ばかりの国も有る。そういった国には春は存在しません。

春と言う概念は四季の有る国だけに通用すると言えるのでしょう。

霊的な春はどうでしょうか。

待っていれば来るのでしょうか。

ある人達はただ待っていれば、キリストが再臨する。神の王国が地上に現れる。この世の次元が上昇すると言います。

しかし霊的な春は地上的な春とは異なります。

希望は常に持たなければ成りませんが、ただ待っているだけでは何も実現はしません。

霊的な春は神や高貴な霊魂方が与えて下さると言えます。

神や高貴な霊魂方は常に人の自由意志を尊びます。

霊的な春はそれを求め、それ相応の努力を行なってこそ、初めて近付いて来ます。

古の達人が言われたように「求めよさらば与えられん。」それが全てだと言えるでしょう。

[ 2012/03/08 20:08 ] つぶやき | TB(0) | CM(0)
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Walk

Author:Walk
肉を食べ酒も飲み、妻も子供も居る全くの一般人です。それでも道を求める手立ては有ると信じて、至らぬながら日々、禊(みそぎ)と鎮魂(ちんこん)の霊的トレーニングを行なっています。そんな一修行者の独り言を綴ります。

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