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Walk

Author:Walk
肉を食べ酒も飲み、妻も子供も居る全くの一般人です。それでも道を求める手立ては有ると信じて、至らぬながら日々、禊(みそぎ)と鎮魂(ちんこん)の霊的トレーニングを行なっています。そんな一修行者の独り言を綴ります。

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先祖供養

夕焼け

[先祖供養] ブログ村キーワード
[墓参り] ブログ村キーワード

私が子供の頃、家族親族でお墓参りをした際は、先祖に対して、何かしらの願い事をしていた事を思い出します。その当時は、周りがそうしていたから、子供の私も自然と同じようにしていたと言えます。また、人の死後は何でも分かって、何でも出来る、目に見えないスーパーマンに成るという錯覚が有りました。

しかし、成人して自分で物事を判断する年頃に成ってからは、感謝や報告、決意の表明なら兎も角、何の努力も無く、虫の良い願を掛ける事には不自然さを感じるように成りました。況してや、先祖の霊が死後、いきなり神や仏のような存在に、大人格転換を起こして、変わる事が出来るのか甚だ疑問に思うように成りました。

あれ程、頑固で怒りっぽかった祖父が果たして、死後、急に観音様やお地蔵様のような柔和に成れるのかと・・・。

やがて、水波霊魂学に出会ってからは、人の心はあの世へ行っても、そのまま引き継がれ、そうそう急に変わるものでは無いという事が良く分かりました。肉体を捨て、幽体を表面の身体とした、あの世へ行っても、誰しもが単なる人間にしか過ぎなかったのです。

ならば「高い戒名を付け、お経を唱えて上げれば、仏に成れるんじゃないか?」と言う方も居らっしゃるかも知れません。しかしお経というのは、お釈迦様の教えや寓話が書かれているのであって、本来、何か特別な呪文とは異なります。大切なのは、お経を唱える人の修行により培った霊力であり、その霊力により、どれだけ高い霊魂を呼べるか?という事だったのです。

お経を唱える時、そこに先祖の霊魂が居て、高級な霊魂が居りてくれば、先祖の霊魂は救って貰えるかも知れません。また先祖供養に限らず、全てにおいて、お経を唱える人に霊力が有り、実際に高級な霊魂が降りて来るか?または力を降ろされるか?が重要だったのです。

と言う事は、聖職者だから、お経に力が有るとは限らず、一般人であっても正しく修行を行えば、誰でも霊力は持ち得るのです。
私は、そうした修行の法を水波一郎師より授かりました。

それは、いつも申し上げますが、荒行や難行苦行ではなく、女性でも子供でも容易に行う事が出来ます。そして、出家する必要も山へ籠る必要も無く、普通に日常生活を送りながら、忙しい人でも霊的な進歩向上を図る事ができ、霊力も身に付いていきます。

修行がある一定の段階まで昇れば、他者に対し、お祓いを行なったり、その他、様々な霊術(霊的技術)を行う事も出来るように成ります。当然、修行を土台としたお祓いや霊術なので、大きな力を発揮する事が出来るように成ります。

是非、多くの方がチャレンジ頂ければと思っています。

〈霊的トレーニングについて〉

http://www.kouhou-keizankan.jp/subpage3.html

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テーマ: スピリチュアル
ジャンル: 心と身体

祭り

[お祭り] ブログ村キーワード

お祭り。それは世間一般では、楽しい行事として捉えられて居ます。

それは言葉の定義をそうしたものとして捉えるなら、それはそれとして良いのでしょう。

しかし、お祭りの語源を考えると、それは本来、「神祭り」から来ていると言えます。

もし、そこに神への信仰は無く、単に楽しく騒いで、日頃の疲れや鬱憤を解消し、リフレッシュする事のみが目的なら、あまり「祭り」と言う単語は相応しく無いように思われます。

勿論、楽しく騒ぐのが悪い訳では有りません。ただ「祭り」と言う用語を用いるのだとすれば、その根本に神への信仰が必要なのだと思うのです。

何故、信仰が必要なのか?

神社のお祭りで有れば、本来、必ず神社の中で神事が行われて居ます。

日々、真剣に修行を重ねた神主さんと、真面目な想いで、神輿の担ぎ手や、獅子舞、お囃子などの参加者が、そこへ参列し、神事を行う事によって、高級な幽気が降りて来ます。

そして参加者はその高い幽気を吸収し、街へ神輿なり、獅子舞、お囃子などで繰り出します。

そして練り歩きや、お囃子の音色に乗せて、神社で吸収した高い幽気を、自然に振り撒き、流して行く事が祭りの本来の目的だと言えます。

また真に力の有る神主さんが、霊的な目印、つまりご神体に高い力を降ろし、それをお神輿に載せ、担ぎ手が街を練り歩くなら、より一層、街中には高級な幽気が流れ、街の霊的な環境は良く成って行きます。

霊的な環境が良く成ると言う事は、その街の人達は、より高貴な霊魂との接点を持ち易く成り、霊的な事柄に起因する災いは減り、人が生まれてからの、本来の使命や目的を達成し易く成ります。

だからこそ、本来、祭りには信仰心が必要なのだと言えます。

実はこれは、多くの人達の人生をも左右する一大事です。

もし、真に高貴な力が降り、神輿や獅子舞、お囃子などで、高い力が街中へ本当に流れるなら、常に綺麗な水が入り込み、滔々と流れる川のように、街で淀んで居た邪気は祓われ、街の霊的な新陳代謝が図られます。

また人によっては、傍に寄って居た未発達な霊魂が離れるかも知れません。

または街のある人が、高貴な力に感応する事によって、明日通れば、事故が起きる筈の道路を選ばないかも知れない・・・。

そうすれば、人一人の人生が変わり、また命が救われた事に成ります。

霊的な救いは本来、霊能者だけの専売特許では有りません。

霊能力が無くても、真剣な信仰心。神を求める熱い想いさえ有れば、そうした事は誰にでも不可能では無いのです。

大切なのは、実在の高貴なる力が降りて来るかどうか・・・。

信仰心の無い所に高い幽気は、決して降りて来ません。

それは高貴な霊魂にも個性が有って、求めない人、不真面目で無礼な人には、決して力を降ろそうとは思われないからです。

よって楽しい行事の時は、力んでいても仕方無いので、肩の力を抜けば良いのですが、少なくとも神の前に出るという時は、決して神妙な気持ちを忘れてはならないと言えます。

今回は、神社のお祭りを例えに出しましたが、他の宗教のお祭りで有っても、原理原則は変わりません。

高貴な霊魂で有れば有る程、特定の宗教・宗派のみを意識する事は有りません。

真剣な修行をして来た聖職者が居て、そうした人が霊的な中心と成り、多くの人が集まり、高貴な存在を求め、高貴な力を降ろして行く。

その上で、その高貴な力を各地へ流して行く・・・。

それが「祭り」の真義で有り、凡ゆる宗教行事・儀式の目指すべき姿と言えるでしょう。

真の意味での「祭り」は人の霊的な救いにも迫ります。

単なる伝統の継承では無く、実在の高貴なる存在を求め、実在の高貴な力をこそ、求めるべきだと言えます。

テーマ: スピリチュアル
ジャンル: 心と身体

開運

開運を願い、寺社などへお参りする人は多いと言えます。

人としての努力を為し、その上で天命を待つとして、あとは天に委ねるという事で有れば、神の道、人の道にも叶うと言えるでしょう。

また人生の修行。魂の修行にも繋がって行くかも知れません。

しかしながら、人としての努力無く、僅かのお賽銭や祈祷料だけで、ただ神や仏に願うは、そうした願いを本当の神や仏が聞き届けてくれるでしょうか。

例えば、商売繁盛や学業成就の願いが叶い、商売や事業に成功し、学校に受かる時、その一方で必ず泣いている人も居ます。

もちろん、正当な努力をしているならば、競争をする事も切磋琢磨。一時期の勝ち負けは有っても、お互いを磨く事にも繋がると言えるでしょう。

そうでは無い場合、本当の神や仏は助力はして下さらないでしょう。

そして、どんな御利益を得ても、お金も地位も名誉も肩書きも全て、あの世には持っては行けません。

もちろん神や仏に手を合わすのは、人としての本来、自然な姿。

神仏に祈り、願う事が悪いと言う訳では有りません。

もし御利益を頂いたとしたなら、その後、それをどのように繋げて行くか・・・。

悪いのは結局、魂としての長い歴史を考えず、この世の事に終始して、神や仏を僕べのように利用してしまう事に有ると言えるでしょう。

この世を生きる上で、人はパンが必要だし、お金も必要。そしてそれを得る事は本当に大変な事です。

その為にみんな必死で働き、生きています。

しかし、それだけの為に盲目的に成るので無く、人はこの世だけで終わりでは無い事を知る必要が有ると言えるでしょう。

あの世でも人生が続き、その魂としての長い歴史を見つめる、神や仏といった高貴なる存在。その下に連なる高貴な霊魂方が居らっしゃる。

そうした存在は常に手を差し伸べようとして居らっしゃる。

人が苦難に会い、孤独な時も、いつも何とかしてやりたいと思って居らっしゃる。

それを受け入れないようとしないのは、いつも人間の方なのです・・・。

テーマ: 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル: 心と身体

宗教

宗教というと人間の力では及ばない特別な力を持った存在を信じ、その守護と助力を願うといった姿が一般的だと思います。

姿・形は違えど有史以来、宗教は多くの人にとって心や魂の支えに成って来たと言えます。

しかしながら近年日本では、ごくごく一部の宗教団体の犯罪行為や霊感商法、奇異な活動によって宗教というと多くの方が強い警戒心を抱くように成ってしまいました。

しかしながら本来、宗教は神とか仏とかゴッドといった高貴な存在を求めます。

それだけに大多数の宗教は高貴な存在の意を体して、社会に迷惑が掛かる事は最も忌むべきものとして、真面目にコツコツと活動しているのが普通だと言えます。

宗教は世界の各地に多種多様な形態を形作っています。

そして世界的に見ると唯物論の国を除いては、「あなたの宗教は何ですか?」と問われれば、答えられる人が殆どだと思います。

しかし日本人はと言うと即答出来る方は少ないのでは無いでしょうか?

それは良くも悪しくも、日本人の宗教や文化に対する寛容性や柔軟性の現れで有ったり、また逆に外国の方からすると、何故いろいろな宗教の信仰対象に頭を下げ祈るのかと疑問を持たれる事にも成るのでしょう。

でもそれだけに一昔前の日本では、まだ真面目な宗教に対しては、それを受け入れる風土が多々有ったように思います。

先にも申し上げました、ごく一部の団体の犯罪行為等で宗教に属している事は、悪い事であるような気風が醸成され、宗教団体には一切施設は貸さないと謳っているところも有ります。

宗教者というと、クモの子を散らしたように去って行き、腫れ物を触るような、特別な存在と見られる事が多く成りました。

もちろんそれぞれの宗教が法を遵守し社会に認められるような、行動や言動を当たり前の事として行なっていれば良いわけですが、そのようにしても昔より社会の警戒感が強いのは事実です。

日本は唯物論の国では無く、信教の自由が認められている筈ですが、何故か、宗教者は身を隠すような生活を余儀無くさせられるように成ったのが、現実のように思います。

もちろん、宗教はそれを信じるがあまり、他の宗教・宗派を攻撃し、甚だしくは宗教戦争にまで発展し、そうした姿を見ている周りの人の心が離れていく気持ちは理解出来ないでも有りません。

でもそれは、あくまで地上の人間の側の問題で有って、神・仏・ゴッドといった高貴な存在に何一つ責任は有りません。

真理や法則はいつも一つで有り、幾つも有る訳では無いのです。

地球は太陽の周りを周っています。事実は変わりません。

それは人間の想像や期待の産物では無く、それらを超えていつも孤高に輝いています。

多くの方に霊的真実(霊的法則)を知って頂きたいと思うものです。

<霊って何?>

霊って何?

テーマ: 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル: 心と身体

親と子

親と子。

子供が生まれると、例えそれまであまり子供が好きで無かった人でも、自分の子供の事はとても可愛いいという事を良く聞きます。

ただ親は子に与え、ただ子は親を求めます。そこに理屈は有りません。

しかしながら、親も朝から晩まで一日中、子供を抱っこしているのは、物理的に不可能です。

子供が落ち着いている時、喜んで遊んでいる時は、親は大人としての為すべき事がたくさん有りますし、先ずは子供の事を安心して離れて静観しているものです。

でも子供が転んだり、お腹が空いたり、お漏らしをして、泣きわめいて「ママ!」「パパ!」の名前を呼べばすぐに駆け付けます。

そして抱っこをしながら「ヨシヨシ」と絆創膏を貼ったり、ご飯をあげたり、オムツを変えたりします。

以前にも同様の事は申し上げましたが、それは神または高級霊魂と人との関係にも似ています。

人が何不自由無くニコニコと生活をして名前を呼ぶ事も無ければ、神または高級霊魂は地上に関わる必要が無いと言えます。

しかし真剣に名前を呼ぶなら、その限りでは有りません。

でも仮りに泣き喚いて、子供が親の名前を呼んでも大きな音量でアンパンマンのビデオが流れていれば、二階で洗濯物を干している母親には声が届かないかも知れません。

今、地上の世界は低い幽的エネルギーの雲に覆われて、また人の想念の質が低すぎて、地上の声は天に届かず、天よりの光は非常に降りづらい霊的状況と成っています。

それでもアンパンマンのビデオは途中で終わるかも知れず、低い幽的エネルギーの雲にも切れ目が現れるかも知れません。

そうすれば子供の声は親に届き、親は子供のもとへ駆け付け、そして地上の声は天に届き、天よりの光は地上に射し込み、天よりの御使いが降りて来られるかも知れません。

それは親の名を、神の名を呼び続けてこそ起き得る事です。困った時の神頼みでは天に声は届きません。

神と人との関係は、霊的に深い部分での親子と言えます。

その事は聖書のアダムとエバの物語の一部からも伺えます。

神にとって人は「子」。人にとって神は「親」。

人が神の名を呼ぶのは、人は本来、霊的生命体としてごくごく自然で当たり前の事なのです。

その当たり前の事が現代ではタブー視されています。

「宗教に走る人は弱い人。何かおかしな事をしでかすんじゃないか。高価なものを売り付けられるんじゃないか」と
過剰に反応する人が多く成ったのは事実です。

真面目に道を求める人まで、肩身が狭く、小さく成って生きないといけない時代と成ってしまいました。

ましてや無神論が現代人のステータスとされる風潮までも有ります。

天よりの光は求めなければ決して降りて来ません。

このままでは物質文明はいくら繁栄しても、霊的には暗黒の時代と成ってしまいます。

天との繋がりは完全に断絶されてしまうかも知れません。

それは取りも直さず、地上の人間の大多数が神や高級霊魂を拒否しているからです。

神を求めてこそ、初めてその胸に抱かれ、力が与えられ、救いがもたらされます。

古えの偉大な神的達人イエス師は仰っています。「求めよさらば与えられん。」と・・・。

アダムとエバはもう二度とエデンの園、神の御下へは帰れないのでしょうか?

こういった時代だからこそ、人は神を求め、霊魂を知らねばならないと言えます。

<霊って何?>

霊って何?

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