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Walk

Author:Walk
肉を食べ酒も飲み、妻も子供も居る全くの一般人です。それでも道を求める手立ては有ると信じて、至らぬながら日々、禊(みそぎ)と鎮魂(ちんこん)の霊的トレーニングを行なっています。そんな一修行者の独り言を綴ります。

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冬の芽

冬。

草も木も花々もひっそりと静まり返る。

枯れた枝。枯れた葉っぱ。

でも寒さに耐えながら、毛に覆われた冬の芽にいっぱいの命を蓄えている。

春を夢見て・・・。

冬だからこそ、力を蓄えよう。

冬だからこそ、見つめよう。

冬だからこそ、省みよう。

未来は必ずやって来る。

でも未来を切り開くのは自分自身。

何もしなければ、芽は開かないかも知れない。

何もしなければ、時はただ無常に流れて行くだけ。

夢を見よう。その上で一歩を踏み出そう。

未来は与えられるものでは無く、未来は作って行くものだと思う・・・。

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テーマ: 心のつぶやき
ジャンル: 心と身体

雛祭り

[雛人形] ブログ村キーワード

3月3日は雛祭り。

日本では古くより罪穢れの思想が有り、それを清める為に川などで禊(みそぎ)が行なわれて居ました。

その略式として紙や土で作った人形を身代わりに、自身の罪穢れを移し川へ流す事も行なわれました。

撫物としての人形はやがて、より精巧なものと成り子供達の健康・成長を祈る、現代のような雛人形へと変わって行きました。

当然、現代の雛人形は大変高価なので、川へ流す事は有りません。

罪穢れについては様々な論説が宗教学で述べられています。学問としてははっきりとした答えが出ないようです。

しかしながら昔の日本の人達は罪穢れとは、法律上のそれでは無く、普通に生きているだけで蓄積され、それを定期的に清めた方が良いと言う事を、直感として分かっていました。

もちろんそれは世に言う、霊能力では有りません。

言ってみれば感性による感覚なので、それを言葉として上手く表現出来なかっただけと言えます。

だからこそ昔の人達は毎朝、お日様を拝し氏神様へお参りし、時には川へ入り禊(みそぎ)も行なったと言えます。

外国ではそのような習慣があまり有りませんが、日本人がお風呂に入るのもその名残りだと言えます。

現代人は非常に頭は良くなりましたが、全てを理論や言葉で証明出来なければ納得出来ず、昔の人達のような感性が失われてしまったと言えます。

霊魂学で「罪穢れ」を一言で説明すると、人に悪い影響を与える低い幽気、低い霊魂。または人が過去世より持ち越して来た「霊的カルマ」だと言えます。

それらは人が本来、霊的生命体として生きて行く上で、この世の幸せ、あの世での幸せにも大きな影響を与えます。

それは宗教や思想に関係無く、世界中のどんな人でも清めた方が良いのです。

そうした「罪穢れ」を祓い清める為に、苦行では無くまた根性主義でも無い、女性や子供、忙しい人でも出来る、現代人の為の「神伝禊法」(しんでんみそぎほう)が登場しました。

この世の視点だけで生きていると、どんなに幸せに成ったと思ってもいつか何処かで歪みが出て来ます。もちろんお金を儲けて、美味しいものを食べ、素敵な洋服を着て、立派な車や家を持つ事が悪い訳では有りません。

人は何かの目標が無いと生きていけないと言えるでしょう。

しかしながら真の幸せは、霊的な視点が有ってこそ生まれて来るのだと言えます。

「神 伝 の 法 と は」 http://www.interq.or.jp/mercury/w22525/training2.htm

花と梅

テーマ: 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル: 心と身体

クリスマス

[クリスマスツリー] ブログ村キーワード

今日はクリスマス。

イエス・キリストの降誕を祝う日とされて居ます。

日本ではクリスチャンで無い方にとっては、宗教とは無関係に年中行事の一つとして受け入れられています。

我が家でも普通の家庭と同じく、クリスマスにはツリーを飾り、子供にはサンタからとして、クリスマスプレゼントをそっと枕元へ置いています。

しかしながらクリスマスツリーの一つを取っても、本来は宗教的な意味が多数込められて居り、宗教的な事柄とは切っても切り離せない関係と言えます。

先ず最初に申し上げておきますが、私はクリスチャンでは有りません。あくまで「霊魂学」を学び、「霊的トレーニング」を実修する者の一人です。

霊魂学の見地から見た、イエス師はどういったご存在なのでしょうか。

イエス師は「私は神の子で有る」と言われました。そしてそれは事実であり、高貴な世界より地上へ降りて来たあまりに特別な魂と言えます。

霊魂学で定義する「神霊」は分かり易く例えで言うなら、物質宇宙を掌の上で転がす事の出来る程、巨大で高貴な存在と言えるでしょう。

イエス師はそうした「神霊」と地上とを結び付ける事の出来る歴史的に稀有な大神人でした。

イエス・キリストという呼び名を知らない人は、クリスチャンで無くとも知らない人は先ず居ないでしょう。

しかしイエス・キリストの「キリスト」とは一つの称号で有って、イエス師の名前そのものでは有りません。

そして高級な霊魂方の間でも「キリスト」と呼ばれる高貴な魂は、実はイエス師だけでは有りません。歴史上、名前を残されている方としてはシャカ師が居らっしゃいます。

またイエス師やシャカ師を含め、「キリスト」と呼ばれる高貴な霊魂は6名居らっしゃいます。
過去、人類の歴史の中で人間として生まれ、神霊と地上の人々とを結び付ける事の出来たのは6名の「キリスト」だけです。

現代では多数の自称「キリスト」。多数の自称「神」が居ます。しかしそれら全てが偽者だと言えます。

6名の「キリスト」は最初から特別な魂であり、天才で有ったと言えます。

その天才とは何もしないでいて、特別な能力を発揮する訳では有りません。真の天才とは、誰にも負けないような努力をする事の出来る人と言えるでしょう。それでこそ、その持って生まれた才能も初めて発揮されるものです。

仮に自分が本当に特別な魂で有ったとしても、何もしなければ普通のただの人として終わってしまいます。いや寧ろ地上へ降りる前、神に人類を救わんと誓って降りたのに、全く何もしなければ、それは罪とも言えるでしょう。

少なくとも巷に溢れる、自称「キリスト」。自称「神」には騙されないようにしたいものです。

6名の「キリスト」は地上での偉大な活動を終えられ、高級霊魂の中でも特別な地位に有り、現在でも地上の人類を霊的に救い導きたいと活動を続けられて居ます。

しかしながら現代人は文明が発達した反面、あまりに神や霊魂を否定するように成ってしまった為、神霊、キリストの霊魂方を初めとする、高級な霊魂団がいくら人類を救い導こうとしても、人類の神や霊魂を拒否する自由意思によって、その高貴な力を降ろす事が全く出来なく成りました。

高貴な力が全く降りなく成れば、自ずと低い幽気や未発達霊魂、邪霊で溢れ返るのは当然だと言えるでしょう。それは新しい水の流れ込む事の無い、淀んだ池のようなものと言えます。

人類が真の救いに至るには、神霊そして高級な霊魂方が地上に目を向け、人類を救わんと活動されている事を知り、新しい綺麗な水としての高貴な力を地上へ降ろして頂き、それを受ける以外に方法が無いと言えます。


雪の結晶

テーマ: 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル: 心と身体

ハロウィン

10月31日はハロウィンの日。元々ハロウィンは、ケルト民族の収穫感謝祭に起源が有り、その思想や行事がキリスト教に吸収され、キリスト教の布教と共に世界各地に広まって行ったようです。

もちろん日本の伝統行事では有りませんが、最近では日本の各家庭や遊園地でも、イベントの一つとして気軽に楽しまれるように成って来て居ます。

しかし本来のハロウィンは、この世とあの世の間に有る「扉」が開き、相互の間で自由に行き来が可能と成り、死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられる宗教行事とされています。

それは日本のお盆やお彼岸に先祖の霊が、子孫の家に戻って来ると信じられている思想とも似通って居ます。

ハロウィンにしてもクリスマスにしても、季節のイベントと成り、日本の文化として融けこんで、それ自体は家族や友人・知人との絆を深める日として、欠くべからざる日とも成って来て居ると言えるのでしょう。

しかしながら霊的な視点から見るとどうなのでしょうか。

霊的な法則として、この世とあの世の間に有る「扉」が開いて、相互の間で自由な行き来が許されると言う事実は有りません。

人は死ねば、肉体を脱ぎ捨て幽体を表面の身体として幽界の住人と成ります。

その為、幽界での生活やまた霊魂としての修行にひたすら励む事が、一番自然な姿と言えます。

それを無視して、地上時代の物質的生活の快楽を忘れられず、また幽界での修行が足りないにも関わらず、地上の人間を導く力量も無いのに、地上に居る家族や子孫の事を過度に心配して、地上の次元に戻ってしまう事は、先ず、幽界の先生に当たる霊魂が許して呉れる事は殆ど有りません。

子孫や家族、地上の人間を守る助けるといっても、まだまだ全く力量が無いので、良かれと思って行なう事でも本当の助けとは成らず、地上の人間にとってはありがた迷惑にしか成らないのです。

本当の意味で地上の人間を守り導く事が出来るのは、幽界での修行を長年月かなり積み高級霊魂とも言える霊的なレベルに到達し、更には上位の霊魂の指示と許可を受けてこそ、地上の人間の守護・指導が可能と成ります。

そうした高級霊魂を「守護霊・指導霊」と定義します。

それ以外で地上の次元にやって来る霊魂は、霊魂の先生の許可無く戻って来ているか、邪悪な霊魂またはその手先が地上の人間に悪影響を及ぼす為に来ているかのどちらかと言えるでしょう。

人は霊魂に成ったら、地上への未練は一切捨てて、幽界での生活や修行に励む事が、霊魂にとっての一番の幸せなのです。

それでも地上に戻ろうとする事は、邪悪な霊魂またはその手先に見付けられ、下層の幽界へ引きずり込まれる事にも繋がります。

この世とあの世の間に有る「扉」が開いたり閉まったりする事は無いのです。

しかしながら、霊的な法則としてそうした事実は存在しませんが、人が地上時代の思想や慣習を、幽界にまで持ち込んでしまう事はかなり有るようです。

お盆にしてもハロウィンにしても、それを良く知っていて、その時期は死者は地上に戻るものと信じていれば、お盆やハロウィンに合わせ勝手に地上へ戻って行く霊魂は確かに有るようです。

人には肉体が有り、幽体が有ります。

肉体には肉体の個我が有り、幽体には幽体の個我が有り、それぞれにそれぞれの意識が有って、人は意識の複合体だと言えます。

それが死の瞬間、「肉体の個我」は「幽体の個我」に吸収され、地上時代の記憶も幽体に引き継がれて行くと言えます。

あの世では、肉体が無く、死も無く、その為食べる必要も無いし、寝る必要も無い、労働も必要無く、肉体としてのあらゆる感覚や欲望も消えて行きます。

それでも自分が生前、強く信じて居た宗教や哲学、思想や慣習はなかなか忘れないようで、似たような霊魂が集まってコミュニティを作る事も有るようです。

そしてそうした宗教・思想・信条の対立もかなり起きて居るようです。

今や人は幽界には本来無かったものを地上より持ち込んで、独自の世界を作り上げてしまったようです。

しかしながらそれらは決して、高級霊魂の住まわれる世界では無い事を知らねば成りません。

高級霊魂は地上の宗教や哲学、思想や慣習が霊的な法則、霊的な真実とは全く異なって居る事を深く理解しています。

それらは地上の人間が肉体の脳により考え作りだされたものでしか無いのです。

高級霊魂の意識は地上的なものの全てを超えてしまっています。

ましてや地上のどれほど立派な人の肉体の脳の意識とも比べものには成りません。

人は地上時代に強い心理的ショックを受け「トラウマ」として残る事が有ります。その後の人生で、それは様々な形で浮かび上がり影響を与えるものです。

「トラウマ」とまでは言わずとも、人は急に何かを思い出して、腹が立ったり、楽しく成ったり、悲しく成ったり、そしてその衝動はなかなか止める事が難しいと言えます。

そうした強い衝動を持った心理も、そのまま幽体へ引き継がれ、表面上は忘れて居ても、幽体の意識の奥で眠って居ます。

そしてそうした奥に眠る心理は、かなり進歩した霊魂で有っても、幽体の意識の奥に有って、やがて更なる霊的成長への妨げと成って行きます。

幽体の意識の奥に眠る心理は、浮かび上がらせ霊的に高級な光を当てなければ、それを消す事が出来ません。

しかし幽界での生活では、地上的な経験が出来ない為、霊的な成長の妨げと成る心理は意識の奥でしこりと成って永遠に残って行きます。

そのままでは、ある一定段階以上の霊的な成長は図れません。

人は霊的法則として、地上の世界へ新たな再生を何度も何度も繰り返して居ます。

何度も繰り返す地上への再生の中には、まだ現代のように文明が発達して居ない時代も含まれ、部族同士、民族同士、国同士の戦いは頻繁に有ったと思われます。少し野蛮な言い方には成ってしまいますが、自分が殺した殺された、または家族や大切な人がそのような目に合ったという経験が、全く無いという人は居ないと言えるでしょう。

人には地上への再生が何度も有る以上、どんな人でもそのような強い心理的ショックが、幽体の意識の奥に刻まれて居ます。

当然、前回、前々回、前々々回、それ以上前の地上時代の人生での強い心理的ショックの事は、表面意識では到底覚えては居ません。

それは自分が一週間前に食べた食事の事や、会った人の事を忘れる事も有る事を思えば当然の事と言えるでしょう。

しかし心理学や催眠術等でも言うように、人は表面の意識では忘れて居ても、意識の奥にはあらゆる事を記憶して居ると言えます。

地上へ再生し、過去世の強い心理的ショックを受けた時代の人生と似たような経験をすると、いわゆる「トラウマ」のようなものとしてその心理が浮かび上がり、何だか良く分からないけれど、怖いとか、悲しいとか、腹が立ってしまうとか、好ましいとか、好ましく無いとか、自分でもコントロールの出来ない無意識の衝動として進むべき道を判断し、地上の人生全体に影響を与えて行きます。

この世の生活で浮かび上がった、過去世よりの無意識の強い衝動。つまり「霊的カルマ」に対して、神々そして高級霊魂よりの霊的に高級な光を当て、衝動を和らげ、小さくし、浄めていけば、その人の霊魂としての全体は進歩・向上の道へと進んで行く事が出来ます。

しかしながら、霊的に高級な光により「霊的カルマ」を浄める事も無く、この世の生活を終え、また幽界へ戻り、また地上へ再生をするなら、それはまさに雪ダルマ方式では有りませんが、「霊的カルマ」はどんどん、どんどん膨らむ一方なのです。

そしてそれはその人の霊魂全体としての、進歩どころか退化へとも繋がって行きます。

個々の「霊的カルマ」が集まると、それは国の「霊的カルマ」。国の「霊的カルマ」が集まると人類全体の「霊的カルマ」と言えます。

現代は人類が誕生し、地上への再生を何度も何度も繰り返し、「霊的カルマ」は浄められる事無く、積もりに積もって飽和状態と成って居ると言えます。

「霊的カルマ」を浄め無い限り、罪は罪を呼び、益々自分の首を締め、それは現在の世界の様々な状況を見れば、それを示唆して居る事は誰しも感じるのでは無いでしょうか。

いや実は地上世界だけでは無いのです。

それは地上世界や幽質界までをも含んだ霊的宇宙全体としての退化にも繋がり、そして崩壊へと繋がって居るとも言えます。

霊的宇宙全体はどんどん重く成って行くばかり・・・。

それをくい止めるには、やはり霊的トレーニングとしての「神伝禊法」を行なうしか有りません。

神的達人としてのブッダやキリストも、名前の呼び方は違っても同様の霊的技法をお持ちで居らっしゃっいました。

しかし当時、それを説くだけの環境が無かったと言えます。

時代は流れ、現代に「神伝禊法」はその姿を現しました。

それはまさに「神伝」で有り、神々より示された、人類を真の救いへと導く高度な霊的技法です。

もし一人一人が「神伝禊法」を実修し、神々そして高級霊魂よりの霊的に高級な光を受けるなら、一人一人の「霊的カルマ」のみならず、人類全体としての「霊的カルマ」も解消され、人類全体の霊的な未来は、確実に一歩一歩、真の幸せへと近付いて行く事が出来ると言えるでしょう。

<霊って何?>

霊って何?

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ハロウィン

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ジャンル: 心と身体

体育の日

[運動会] ブログ村キーワード

今日は体育の日。運動会であるとかスポーツに励む方は多かったのでは無いでしょうか。

私も子供の運動会では親子競技に参加したり、ビデオ撮影をしたりで、なかなかバタバタとしてしまいました。

でも子供が初めての運動会でしたし、アセロラダンスやマルマルモリモリを踊る、子供の姿にこんなに成長するもんだなと感慨深いものが有りました。

天候もちょうど良くて、身体を動かすには最高の日でしたし大きな思い出と成りました。

体育の日とは文字通り、身体の健康を見直して、身体を鍛えて行こうという日だと思います。そしてそれはあくまで肉体としての身体を意識したものだと言えます。

いつも申し上げますが、人は本来霊的生命体であり、あの世の生活で使用する、幽的な身体「幽体」を肉体の背後にダブって所持して居ます。

これは人が死後、幽界で高低様々な世界へと入って行く為に、必ず必要な身体だと言えます。

人は死後必ず幽界へ入って行くし、幽界での生活で幽体を所持しない人は一人も居ません。

「幽体」と言う身体は、TV等では軽々しく幽体離脱として語られたりしますが、幽体離脱は霊的には絶対にやってはいけない行為だと言えます。

幽体が完全に離脱してしまう事を「死」と言います。

幽体離脱の訓練等行なって、もし肉体と幽体の接点が完全に切れてしまえば、間違い無くあの世行きです。

もし仮に運良く、肉体に戻る事が出来たとしても、その後は肉体から幽体が外れ易い体質と成ってしまいます。

肉体から幽体の一部がはみ出しずれてしまうと、その間隙を狙って、低級な霊魂が肉体に入り込もうと狙われ易く成ってしまいます。

そう成ってしまえば、その後の人生は精神的な異常を来たしてしまって、社会生活は出来なく成ってしまうと言えるでしょう。

そして、医学では霊魂は認めませんから、いくら病院へ通っても、完治する事は不可能と成ってしまいます。

どれだけ薬を飲んでも、霊的な障害は解消されないからです。

しかしそうした現象は必ずしも、幽体離脱の訓練のみで発生する訳では有りません。

全く普通の人でも、例えば他者からの攻撃的な念を幽体に受け幽体が損傷すれば、肉体と幽体を接着剤の如しに結び付けている、間気(かんき)が漏れ、肉体と幽体の密着度が弱く成り、幽体が肉体からずれ易く成ります。

また幽体が損傷すれば、幽体から発する霊的な光(幽体オーラ)が正常に出にくく成ります。

幽体の損傷の状況によりますが、例えば下半身からはオーラは出るが、上半身からは全くオーラが出ないといった事も有ります。

場合によっては幽体の全身が傷だらけで、全身から幽体オーラが全く出て居ない人も有るようです。

霊的な存在である高級な霊魂は人の肉体では無く、人の霊的な部分を常に見て居ます。

それは人の幽体であり、幽体から発する霊的な光(幽体オーラ)であり、または幽的な気だと言えます。

人は肉体が有る為に、自分に対しても、他人に対しても幽体を確認する事が出来ません。

でもそれは明らかに実在の幽的な実質なのです。

そしていつも低い幽気、低い霊魂、攻撃的な念の矢面に立って、幽体は傷付き、弱り、不健康な状態と成っています。

肉体の健康に気遣う人はたくさん居ます。

健康食品を摂ったり、運動をしたり・・・。

しかし幽体の健康を気遣う人は誰も居ません。

幽界は上に行く程、霊的なエネルギーは強く、下に行く程、霊的なエネルギーは弱く成ります。

幽体が不健康で霊的な生命力が弱ければ、上方の幽界の強い霊的エネルギーに耐える事が出来ません。

もし無理矢理、霊的に不健康な状態の幽体が上層の世界に入れば、そのエネルギーの強さで、幽体は砕け散ってしまうかも知れません。

だからこそ霊的な法則として、不健康な弱い幽体はエネルギーの弱い、幽界にしか入れません。

上層の世界へ行くには、幽体が強く霊的に健康で無くてはなりません。

その為には先ず、神そして高級な霊魂を求める事。

そうすれば求める気持ちや霊的な器に応じて、高級な霊的エネルギーが降り、幽体が、幽体の栄養とも言える高級な霊的エネルギーを吸収する事が出来ます。

幽体は序々に霊的な意味での健康を取り戻して行きます。

そうすれば、少なくとも下層の幽界へ落ちる心配は減って行くと言えるでしょう。

しかし更に下層の世界へ落ちる心配を減らし、より高貴な世界へ入りたいと思うなら、更に高度な霊的技術が必要と成って来ます。

その技術を「霊的トレーニング」と言います。

達人が高貴な霊的存在と約束事を交わした、特別な言葉や特別な作法で成り立っています。

私は我田引水と成ってしまいますが、霊的トレーニングとして「神伝禊法」そして「神伝鎮魂法」を行なっています。

名前の上では、「禊」や「鎮魂」は他にも存在します。しかしその内容は全く異なって居ます。

精神主義や、根性主義では無く、あくまで人の霊的な進歩。成長のみを配慮されているからです。

それが霊的な意味での本当の健康法であり強化法で有ると言えます。

人は肉体が有るので体育の日も非常に大切です。

しかし人は霊的生命体であり幽体が有る以上、「幽育の日」も有っても良いと私は思うのです・・・。

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柿

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