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Walk

Author:Walk
肉を食べ酒も飲み、妻も子供も居る全くの一般人です。それでも道を求める手立ては有ると信じて、至らぬながら日々、禊(みそぎ)と鎮魂(ちんこん)の霊的トレーニングを行なっています。そんな一修行者の独り言を綴ります。

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人は自然を破壊し、他の凡ゆる生命体を犠牲にし、また食して生きています。

キリスト教では人は、神より「万物の霊長」としての権限を与えられたと言います。

まさにそれは、世の中の現実を鑑みると、当っていると言えるでしょう。

人より力が有り、強い動物はたくさん居ます。

でも他の生命体に勝る事が出来るのは、高度な知性により、道具を作り、それを器用な手足で使いこなす事が出来るからと言えるでしょう。

どうやら人は他の生命体とは違うようです。

しかし、霊長である人間は、その権限を生かして、好き放題に振る舞う暴君のように成り下がって居ます。

本来人は、地上のリーダーとしての権限を、神より任されたので有れば、其れ相応の責任も伴う筈です。

もし会社で有っても、その他で有っても、リーダーで有れば、自分勝手にやって居れば、その組織は成り立たなく成ります。

会社なら、社員に給料を払わなければ成りませんし、全ての利益を社長のものにする訳にはいきません。

何故、他の犠牲が有っても、その権限と存在が許されているのか。それをもう一度、良く考えなければならないでしょう。

人が他の生命体と、大きく違うのは、他に神へ祈り、神を求め、神を愛する事が出来ると言う事が有ります。

しかし、今や現代人は知識偏重と成り、神を忘れ去ってしまっているかの如しです。

人には高度な知性が有るからこそ、深い思考をし、また判断する事も出来ます。

だからこそ、人は何が大切かを真剣に考え、それを以て、神を求めるべきと言えるでしょう。

実はそれが、他の生命体の霊的な救いにも繫がって行くのです。

前述のように、人間以外の他の地上の生命体は、神へ祈ると言う事が出来ません。

地上に神々、高貴な霊魂方よりの力を降ろし得る事が出来るのは、人間だけなのです。

地上の他の生命体は、良くも悪しくも、人間の霊的影響を受けています。

人が地上に高貴な力を降ろし、その力を周りに流す事が出来るなら、その分、周囲の人も、草も木も、花も鳥も、少しづつ霊的に良い影響を受けて行きます。

また自分に関わる霊魂が救われる事も不可能では有りません。

そうした人が一人でも多く増えるなら、地上の凡ゆる生命体にとっての霊的な救いにも繋がり、霊的な宇宙全体の進歩・向上、進化にも繫がって行きます。

それを為す事が、人間がこれまで繁栄して行く上で、伴った犠牲に報いる真の方法で有り、「万物の霊長」としての責任であるとも思うのです。

動物も鳥も、花や木も、「私は人に仕える為に生まれて来た。そして人に救って欲しい。その為なら何でもする。」と、その深い意識には秘められて居るのかも知れない・・・。

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テーマ: 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル: 心と身体

捨てる神有れば、拾う神有り

ある日、公園を散歩していると、20代くらいでしょうか。若者が大事そうに猫を抱っこしています・・・。

その公園には捨て猫が多いのです。

市の方でも随分、苦慮している様子・・・。

そうした中、一見、所謂、チャラチャラした感じの髪形と服装の若者達が数名、猫の家を作り、エサを遣り、一所懸命、猫達の世話をしています。

いつの時代も「今時の若者は・・・。」と言われがちなものですが、しかしながら、「今時の若者、捨てたもんじゃない。」と少し、心が暖かく成りました。

世の中には動物を捨てる人が居ます。

そして可哀想と思いながらも、何も出来ないか、その場だけでも、手持ちの食べ物を上げるのが、大半の場合だと言えます。

なかなか日常的にお世話をして行く事は出来ないものです。

人には自由が有り、捨て猫の世話をする義務は全く有りません。

それでもそれを為すというのは、やはり愛が有るからだと言えるでしょう。

若者達の姿に、少し、未来への希望を見出せたような気がしました・・・。

「捨てる神有れば、拾う神有り」と言う諺が有ります。

真の意味での神は、そのような言葉で表す事が出来るような小さなご存在では有りません。

霊魂学で定義するところの神々。つまり「神霊」は地球全体を見晴るかす。いや宇宙全体を見晴るかす。そうした巨大な個性の事を差します。

そして、人に自由が有るように、神々と言われる存在にも自由が有ります。

私が私の師より伝え聞いたところによれば、神々にも地上に目を向けて居らっしゃる神霊、そうでは無い神霊と居らっしゃるようです。

なにせ、神々にも神々としての、神々の世界でのご生活がお有りに成る訳ですから・・・。

人間の為に、神々が存在して居らっしゃる訳では無いのです・・・。

それでも尚、地上に目をお向けに成る神霊が居らっしゃるそうです。

そのあまりにも高貴な神的視覚には、この争いと欲望に満ちた地上の世界は穢れに満ちて、とても堪え難い世界との事です。

歴史上、数々の修行者達が修行を行い、神霊が天空より見て、地上を見る為の目印と成り得る、神的アンテナとしての神山が育まれて来ました。

その山が日本には有ります。

それは一宗教、一思想に限定される小さなアンテナでは有りません。

ゴッドであれ、仏であれ、八百万の神であれ、その正体は一つ。

人がそれぞれの神の名を真剣に呼ぶ時、それは地上に目を向けて下さっている巨大な個性よりの力の流れを受けるのだと言えます。

名も無き神。そして自分勝手に生き、争いばかりをし、欲望のみを追求して生きる人間。それでも人知れず、高貴なる存在は人類に手を差し伸べんとする・・・。

テーマ: スピリチュアル
ジャンル: 心と身体

本能と欲望と本質

人はいつも他と競争し、他に打ち勝ちたいし、自分が上に居たい。

それは人には肉体が有って、生きる為には仕方が無い部分とも言えます。

他に譲ってばかりで自分や家族が路頭に迷い、全く食べて行く事が出来なくなれば、それは決して正しい事とは言えないでしょう。

人も動物も生きて行く為に、自分や家族を守るのは、自然な本能だと言えます。

そうしなければ種は絶えてしまいます。

しかし人間と言う生命体はそれだけでは終わりません。

人はパンが欲しい。

しかしやがて飢えを満たすだけで無く、より美味しいパンを求めるようにも成って行きます。

おむすびでは飽き足らず、高級なフランス料理や中華料理も食べたく成ります。

もちろん、それが必ずしも間違っている訳では有りません。

そうした欲望も無ければ、人は成長が出来ないし、社会も発展しない。人生の楽しみも無い。

他者の自由を犯す事無く、迷惑を掛ける事無く、正当に働いたもので有れば、その報酬は認められなければならないでしょう。

もし億万長者・大富豪に成る立場に有るなら、それ自体が悪い事では決して有りません。

しかしどんな物事でも、その善悪は人や時や所、その用い方によって変わるのだと言えます。

人の欲望は尽きる事が有りません。

あらゆる富や権力、地位を独占したい。

その飽く無き欲望が過度に成ると、やがて人や国の争いにも発展して行きます。

しかし人には肉体が有り、食べなければ生きていけず、欲望も捨て去る事は出来ない以上、そうした争いを完全には避けて通る事は出来ません。

ではどうすれば良いのでしょうか。

やはり人は人の本質を知らなければなりません。

人は肉体が終れば、それで全てが終りでは無いという事。

生前の行為や言動、想いの積み重ねが自身の幽体や魂に反映されるという事。

風船は上に登り、石は下に落ちるように、その霊的な状態の良し悪しによって、法則に従い死後の行くべき世界が決まるという事。

そうした事を知っていれば、相手の自由を無視した行為や言動、想いも自然に慎むというもの。

無用な争いも減って行くでしょう。

競争社会の中で競争心ばかりに満ち、勝たなければ気が済まない人には勝たせて上げれば良いでしょう。

正面からぶつかり合っても、それは力対力。

正義とは無関係に力の有る側が打ち勝ちます。

無用な争いは虚しいだけ・・・。

一見、負けたように見えたとしても、自身の奥に有る高貴な部分は、それで変わる事は無いし、何者も犯す事は出来ません。

そして多くの人がその高貴な部分に水をやり、肥料をやり、日の光に当て、枯らす事無く、大事に育んで行くなら、いつかはきっと・・・。

いちご狩り

[いちご狩り] ブログ村キーワード

3月に入り徐々に花のつぼみは開き鳥達は囀り、漸く日々春の気配を感じるように成って来ました。

そんな中、春の果実と言えるいちごは食べ頃です。

いちごは人に食べられるもの。

いちごが賢く成って、人に文句やあれが欲しいこれが欲しいと、難しい事ばかり言っていては誰も摘んでは呉れなく成ります。

やがていちごはそのまま枯れて行き、惨めな姿と成って行く。

人も本来、神様に食べて貰ういちごのような存在。

勘違いしている人が多い・・・。人間の為に神様が居らっしゃるのでは無い。

人も難しい理屈ばかりを述べるのでは無く、素直に神様に食べて頂くのが一番幸せな事だと言える。

それによって、人は永遠に枯れる事の無い生命の実へと生れ変る。

あまりに賢く成り過ぎて、理屈ばかり言っていては神様には食べて貰えない。

所詮、知恵の実は有限で永遠では無くやがて枯れ、あらゆる不幸を生んで行く・・・。

苺

本当の愛とは・・・。

愛は大切であると言えます。何故なら世界中の人が喧嘩ばかりして居ては非常に住みづらいし、場合によっては命の危険すら有ります。街を歩くにも、まるでサバンナの真ん中で、常にライオンに狙われているようなものと言えるでしょう。

故に昔から「愛」という事は強調されて来ました。この世の生活を円滑に進める上では大切な事と言えるでしょう。

しかしながら「愛」もそれを強調し過ぎる事は、必ず反動を生んでしまいます。何故なら人には肉体、幽体が有り、その本性は自己保存欲だからです。

もちろん家族や親、兄弟への愛も有ります。そういった存在に対しては命を投げ打ってでも守ろうとします。しかしそれ以上の愛とも成ると、例えば見ず知らずの人に全財産を譲ったり、命を捧げる事は大変難しい事です。

それでも教えや道徳によって徹底した利他愛を叩き込まれると、それは必ず反動を生んでしまいます。その潜在心は大変なストレスを抱え込みます。

それでも自分はこれだけ社会奉仕をして来たのだから、必ず天国に行けると信じ、やがて他界して行きます。そしていつも申し上げるように、人は単に良い事をしたから、幽界で上方の世界に入れる訳では有りません。あくまで幽体の霊的状態が大切。生前、幽体の霊的な栄養とも言える高級な幽気を吸収し、幽体を成長させていたかどうか。それによってあの世での上下が決まると言えます。

そしてそれには信仰心が必要で正しく高貴な霊魂との繋がりを持たねば成りません。そうすれば人が神の名を呼ぶ時、神の使いとも言える高貴な霊魂より高い幽気が降りて来ます。その質の高い幽気を吸収する事で、初めて幽体は成長します。

もし高貴な霊魂との繋がりが無く幽体が未熟な状態で幽界に入れば、決して高い世界には入れません。未熟な幽体に相応しい、未熟な世界に入ります。

人の心の善し悪しとは関係無く、それは霊的な法則なのです。「自分はこれほどまでに善行を行なって来たのに、何でこんな世界に入らなければならないのだ!」今まで抑えていた衝動は箍(たが)の外れたように爆発し、どんどん愛とは正反対の残忍とも言える程の性質へと変化して行きます。

愛は確かに大切。しかしながら、本当に愛の有る人は自分の愛の少なさを嘆き恥じて、軽々しく愛を口にする事が出来るものでは有りません。

真の愛は教えや道徳による刷り込みでは生まれて来ないものです。所詮、人の愛は小さく限界が有ります。しかし神霊の愛はあまりに巨大で計り知れません。

愛を知るなら、古への達人が言われたように先ず「汝の神を愛せよ。」そして次に「汝の隣人を愛せよ。」

善行を行なったから神に通じるのでは有りません。先ず神を求め高級な霊的エネルギーを吸収し、霊的身体(幽体・霊体)の強化並びに魂の浄化といった霊的な成長を得てこそ、神よりの愛が自然と少しずつ、その行動や言葉に滲み出るように成って行くのだと言えます。

単にニコニコ笑顔だから良いとは限らない。しかめっ面の頑固オヤジのぶっきら棒な一言に大変深い愛情が含まれている事だって有るのです。

愛は大切だけれども、だからこそ軽々しく連呼するのでは無く、一にも二にも先ず神霊を求める事から、全てが始まるのだと言えます。

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