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Author:Walk
肉を食べ酒も飲み、妻も子供も居る全くの一般人です。それでも道を求める手立ては有ると信じて、至らぬながら日々、禊(みそぎ)と鎮魂(ちんこん)の霊的トレーニングを行なっています。そんな一修行者の独り言を綴ります。

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正体

人の正体を見抜くのは難しい事だと言えます。

高級なスーツを身に纏い、美しく着飾り、美辞麗句を並べ立てられると、「この人は素晴らしい」と、つい思いがちなものです。

それは人が人の表面、姿・形しか見る事が出来ず、心の中までは見えないからと言えるでしょう。

それでも出会った方が、自分が見たままの、内面に於いても一点の曇りも無く、表も裏も無い、真に素晴らしい方で有れば、それは幸いだと言えます。

しかしながら、世の中、そうとばかりは限りません。

「世の中に美味い話しは無い。」と分かってはいても、何時の間にか、巧みな言葉に乗せられ、手練手管に巻かれ、有らぬ方向へと迷い込んでしまう事が有るものです。

そうした事も取り返しの付くような事で有れば、一つの人生経験として済ませられるでしょう。

しかし、そうでない場合、人生を棒に振りかねない場合も有ると言えます。

所謂、本当の悪人は必ずと言って良い程、善人を装って近付いて来ます。

誰一人、「私は悪人です。」と名乗る人は居ません。

人の内面や経験して来た事は、良く良く見れば、その人の美醜に関係無く、その表情や雰囲気に滲み出て来るものです。

しかし真に悪意を持って近付いて来る人は、「自分は善人ですよ」と言わんばかりに、素晴らしい笑顔でもって、それを打ち消し、悪意を微塵も感じさせません。

寧ろ、世の中には一見、とても怖そうだけれども、話してみると、とても優しい人だったという事も良く有るものです。

人は見掛けだけでは、判断出来ないと言えるでしょう。

霊的・宗教的世界の観点から言えば、例えば仏教ではたくさんの仏様が居らっしゃいます。

柔和な表情の仏様。一方で大変、怖い忿怒の形相をされた仏様も居らっしゃいます。

どちらも、仏様の一面のお姿で有って、いずれも尊い仏様だと言えます。

忿怒の形相の仏様の代表としては、不動明王と言う仏様が居らっしゃいます。

怒っている姿が決して悪いのでは無く、破邪顕正の頼もしい仏様として、信仰されている方は多いようです。

またキリスト教で言えば、イエス師は神殿の前で商売をする人達を、聖地を汚すものとして、きつく叱り付けたと言います。

それらは、宗教的、霊的に見て、人は絶対に怒ってはいけないのでは無く、時と場合に応じて、怒りも必要で有る事を表していると言えます。

もちろん、不必要に一日中、怒ってばかりいては、無用な敵を作り、協力者を失い、自分も周りも不幸にし、正しい行為とは言えないでしょう。

しかしながら、このままでは、多くの人が崖に落ちてしまう。そうした時は怒ってでも、「そちらの方向は危ない!」と叫ばないといけないのでしょう。

多くの人が、あまりに危険な方向に向っている時、何一つ心を揺らす事無く、冷静にただ見ているだけというのは、人の道、更には神の道にも反するのでは無いでしょうか。

とは言え、崖に向う人達が、それを止めようとする人を「何を言ってるんだ。」と突き飛ばし、一切無視するなら、それ以上、何も出来るものでは有りません。

それは人の自由意志と言えましょう・・・。

しかしながら、歴史上、いつも世の中の未来を案じ、警鐘を鳴らして来た方々は、いつも無視され、それだけならまだしも迫害され、罵られ、磔にまでされて来たのが現実と言えます。

羊の仮面を被り、もっともらしい事を並べたて、「私は愛の化身。平和の天使。」と振る舞う人に、気を付けなければ成りません。

その変装は巧妙で、決して尻尾を見せる事は有りません。

人にとって都合の良い事ばかりいう存在には注意が必要です。

親が子に何かを言う時、優しい事ばかり言っては居られません。

その子の将来を考えれば、時に厳しい事も言わねばなりません。

何をしても「いいよ。いいよ。」では、その子は我儘放題で、将来、人生の落伍者と成ってしまうでしょう。

真に子供の事を想ってくれるからこそ、怒ってもくれる・・・。

キリスト教では、キリストの再臨を願う方も多いようです。

しかし仮に現代にキリストが再臨為されても、果たして人はそれに気付けるのでしょうか。

誰一人として、2000年前のキリストの顔を知る人は居ないのです。

また2000年前と同じ教えを説かれる事も無いでしょう。

必ずや、現代のその国の人達の知性や文化に合わせた教えを説かれる筈です。

キリストが再臨されても、無視しているかも知れない。ひょっとすると足を引っ張っているかも知れない。

ただ言えるのは、そうした真にメシアと言われる方は、人にとって必ずしも都合の良い事を言って下さるとは限らないと言う事です。

寧ろ、厳しい事を仰り、世間からは大悪人と呼ばれているかも知れません・・・。

2000年前、イエス師は大悪人として、磔にされてしまいました。

もしキリストが現代に再臨されるとすれば、人はキリストの弟子達がそうであったように、キリストの高貴な何かに感応し、「はっ!」と目覚めなければならないと言えるでしょう。

それは表面の姿や言葉の良し悪しによるものでは無く、理屈でも有りません。

霊的に高貴な何かに感応し、心を震わせ、自然に平伏してしまう。

人はそうした感性と素直な気持ちを常に持っていたいものです・・・。

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ジャンル: 心と身体

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