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Walk

Author:Walk
肉を食べ酒も飲み、妻も子供も居る全くの一般人です。それでも道を求める手立ては有ると信じて、至らぬながら日々、禊(みそぎ)と鎮魂(ちんこん)の霊的トレーニングを行なっています。そんな一修行者の独り言を綴ります。

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お墓参り

お盆ですね。

世間の慣例に習い、お墓参りに行って参りました。

結婚しているので、両家のお墓にお線香を上げねば成りません。

朝、早かったので、殆ど人が居なくて、落ち着いてお参りが出来ました。

しかしながら、世の中の慣習は認めつつも、それによって死んだ人の魂が簡単に救われるものとは、思えません。

何故なら、生前何十年と積み重ねた行為の結果を、一本や二本のお線香、数回のお経を唱えた位で、果たして清算出来るものでしょうか。

例えば、近親者の遺徳を偲ぶのは、大変尊く人の自然な気持ちの表れかと思います。

しかし、それ以上となると・・・。

外出中、何名かのお坊さんが、原付バイクで檀家さん回りをしているのを見掛けました。

全ての方がそうでは無く真面目な方もたくさんいらっしゃいますが、原付バイクに乗りながら、普段はベンツに乗っていたりする方を、見掛けると、真剣に人の魂の救いを見据えている人はどれ程いらっしゃるのだろうと、ふと考えてしまいました。

本当の意味でこの世もあの世も、救われるにはどうすればいいのでしょうか。

テーマ: 心、意識、魂、生命、人間の可能性
ジャンル: 心と身体

コメント

救いを求めて念仏を唱えるということ自体が、あきらかにご都合主義だといわれますね。
救われることは、どのようなことか。そもそも救われることなど必要なのか、デカルト風に全てを疑いにかけると、問題は解決しません。
しかし、私は思うのです。
人間として生まれた時点で、大きな罪を背負っているとある宗教家はいいました。生まれることが罪、と私は全く意味が分かりませんでしたが、よく考えると、少しだけ理解が進みました。
罪とは人間のあることに随伴して起る必然的な「穢れ」なのです。そのことを意識すると、自分のあり方が少しだけ明確に理解できた気がします。
我思う、ゆえに我あり、ゆえに苦しむ、ゆえに罪深い。
何度も私は周囲の人に言ってきたことなのですが、自分とは何か、を考えることは、自然に、世界とは何か、を考える事なのです。
しかし分かりません。なにか漠然とした「真」以外の世界観があるのでしょうか。いいえ、それこそが世界なのです。

書き込み有難うございます。
どちらかと言うと、閑古鳥の鳴いているサイトなので、
コメントを頂けるととても有りがたく思います。
これからも、ご批判も含めていろいろご意見を頂ければ幸いです。
さて私自身、昔はお経を唱えて、先祖が成仏すれば、諸々の障りが無くなり、自分を守ってくれる霊と成って幸せな人生を送れると、安易な考えを持っていました。
結局、ご利益を得る為に、先祖供養を行なっていたわけです。
キリスト教では原罪として、人は生まれながらに罪を背負っているといいます。
また、現実に人は他の生命体を犠牲にしないでは、絶対に生きられないですよね。
Mozartさんの言われるように、人間は存在するだけで、罪であり穢れなのかも知れません。
しかし、自分を見つめて、その奥に真の自分を少しずつ見つけ出す事が、本当の救いに繋がるのかも知れませんね。
でもその道は遠く、せめてこの世の生を終わるまでにはは、自身の正体の一部でも発見したいものです。

こんにちは、
五木寛之さんや石原晋太郎さんは、宗派こそ違いますが、熱心な仏教徒ですが、一貫して共通する信念は、「救われるために念仏を唱えていない」という点ですね。特に五木さんの仏教観念は私自身多くの影響を受けました。
宗教は、暗い山道を一人で歩いているときに自分自身を動かしてはくれない。
しかし、真っ暗な道の、せめて足元くらいには微光を与えてくれるかもしれない
そうですね、私たちは「他力本願」に陥りがちです。
念仏すれば助かるのだ、キリストを拝めば助かるのだ、そうではないのです。自分という存在を確かめ、その在り方を追究する、その意味が信仰にあるのです。そして自ずと信仰による自分の力が出てくるのです。

たまには知らないお寺を訪問しますが、住職用の駐車場に3ナンバーの車が複数鎮座しているのをよく見かけます。写真に写る不思議なまるを見ているうちに、あの世とは言いませんが、この世と違う世界があるのかなと感じています。それもこの世と密接にかかわりあっている世界かなと感じています。空想の世界ではなく、人間の知らない、あるいは人間が忘れてしまった宇宙のモノノコトワリ、物理が存在するような気がします。

お疲れさまです

ピンピンシニアさん、ご旅行大変お疲れさまでした。
そうですね。お寺へ行って、サラリーマンの私にはとても買えない外国の車がたくさん停まっているのを見ると、何処かにひがむ気持ちが有って、そんな自分が嫌に成ります。
もちろん、聖職者でも、やる事をやっていればどんな車に乗ってもいいし、それで人間の価値が下がる訳でも無いですね。
ただ、歴史的な宗教の達人方が世の中から迫害され、挙げ句の果てには磔けにされた事実を鑑みると矛盾を感じてしまいます。
過去の偉人方の努力を土台に、現代人は更に宇宙のモノノコトワリを解明していきたいものだと思います。
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